『Love Letter』のむこうにのぞく、1995年という時代の転換点【割れた窓のむこうに(折田侑駿)】

『Love Letter』のむこうにのぞく、1995年という時代の転換点【割れた窓のむこうに(折田侑駿)】

文=折田侑駿 編集=森田真規


岩井俊二監督の長編デビュー作となった映画『Love Letter』は、2025年4月、公開30周年を記念して4Kリマスター版としてリバイバル上映された。同作は当時、「地下鉄サリン事件」から5日後に公開され、物語の舞台のひとつは「阪神・淡路大震災」が起こった神戸であった。

1990年生まれの文筆家・折田侑駿による新連載「割れた窓のむこうに」では、特定の作品を通して見えてくる“社会”的な物事を見つめていく。第1回では岩井監督への取材をもとに、ひとつの時代の転換点になった“1995年”について考察する。

※本稿は、映画『Love Letter』のストーリーの詳細に触れています。未見の方はご注意ください。

岩井俊二

岩井俊二
(いわい・しゅんじ)1963年生まれ、宮城県出身。主な監督作に『スワロウテイル』(1996年)、『リリイ・シュシュのすべて』(2001年)、『花とアリス』(2004年)、『ラストレター』(2020年)などがある

映画作家・岩井俊二と1995年

「病気でもないのに病院のベッドの上で寝させられている感覚があった」

映画監督の岩井俊二は、1995年を振り返ってそう口にする。1995年──今からちょうど30年前のことだ。当時32歳だった岩井監督にとって記念すべき長編デビュー作『Love Letter』が公開された年である。

この年の1月17日には「阪神・淡路大震災」があり、3月20日にはオウム真理教による「地下鉄サリン事件」があった。「Windows 95」が発売され、パソコンとインターネットが一般に広く普及。

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世界の命運を託された少年が主人公のテレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の放送が始まり、『ノストラダムスの大予言』によって数年後には人類が滅亡するといわれていたころのこと。そして、戦争が終わってから50年という節目の年でもあった。時代の転換点にもなったあの一年を、あの時代を、岩井監督はどのように捉えていたのだろうか。

「残酷な天使のテーゼ」MUSIC VIDEO(HDver.)

1993年にフジテレビで放送されたドラマ『FRIED DRAGON FISH』が今の言葉でいうところの“バズ状態”を引き起こし、当時の岩井監督は気鋭のクリエイターとして大きな注目を集めていた。

「当時はSNSもなかったので、フジテレビの電話窓口に問い合わせが殺到したらしいんです。いつの間にか僕の特集番組をやってくれていたり。もちろん悪いことではないんですが、『注目されてしまっている』みたいな感覚がありました。なんていうか、ずっと微熱感があるというか……。あれは不思議な感覚でしたね」

1995年3月25日に封切られた『Love Letter』は、『undo』(1994年)、『PiCNiC』(1996年)、『スワロウテイル』(1996年)と同時並行で進めていた企画のひとつだったという。

「かなり目まぐるしかったとはいえ、あのころは大らかな時代だったと記憶しています。どれも依頼を受けてからスタートさせた企画でしたが、内容に関しては自由にやらせてもらえましたから。そんな慌ただしい流れの中で『ロックウェルアイズ』という自分の会社を立ち上げ、本格的な映画制作をスタートさせたのも1995年。そもそも右も左もわからない状況だったので、恐怖心もなかったですね」

“戦後生まれ世代”という意識

この2025年を、私たちの多くが“戦後80年の年”だと捉えている。数十年前に戦争があったという事実は、個々の意識から切り離せない。クリエイターやアーティストならばなおさらだろう。

もう会うことの叶わない愛する人に向けてヒロインが手紙を出すところから、『Love Letter』の物語は始まる。そしてそれが思いがけぬ“文通”に発展し、物語は過去と現在とを往還。

映画『Love Letter』【4K リマスター】 (C)フジテレビジョン
映画『Love Letter』【4K リマスター】 (C)フジテレビジョン
主演の中山美穂は一人二役を演じた (C)フジテレビジョン

手紙は個と個の記憶をつなぎ合わせるアイテムとして機能する。1995年という“戦後50年の年”に公開されたことと、深い関係があるように思えてならない。そう岩井監督に伝えたところ、冒頭に記した言葉が返ってきたのだ。

「僕らも戦争を知らない世代ですからね。ただあの当時の僕が主題として意識していたものがあります。それは“日本社会からの脱出”です。病気でもないのに病院のベッドの上で寝させられている感覚があったんですよね。テクノロジーが進化して、世の中はどんどん便利になっていく。医療などに限らず、社会的ないろんなサポートが充実していく時代でした。携帯電話だってそうです。

そういった環境の中で、なんだか自分たちの“野性”が失われていく感覚が強くありました。もしも荒野の中にたったひとりでいたらどうなるのか。そういうのって一般的に、かわいそうな存在だと思われがちじゃないですか。でも僕は憧れていた。これは現在に至るまで、ほとんど変わっていません」

人間が生き物として持っている個の在りよう──“野性”──が失われていくことを危惧した岩井監督は、そういった日本社会からの脱出を映画という手段で実践してみせた。思い返してみればたしかに、『PiCNiC』や『スワロウテイル』などには特にこの思想が強く表れているのがわかる。

「もっとベースの話をすると、あのころってかなり特異な時代だったんですよね。1977年に『スター・ウォーズ』のシリーズが始まって、『エイリアン』(1979年)や『ブレードランナー』(1982年)などのSF作品がカルト的な人気を集めていました。そして僕より上の世代には、これらの作品から強い影響を受けていた人々が多くいました。『宇宙戦艦ヤマト』(1974年)や『機動戦士ガンダム』(1979年)の誕生には、そうした背景があるんじゃないのかなと。

“ファーストガンダム”はリアルタイムで観ていましたが、大人になってからようやく、あれは戦争を描いた作品だったのだと気がつきました。さらに上の世代のプロデューサーたちには戦争体験者もいたはずで、僕ら世代の人間は無意識のうちに戦争に関する情報をインプットしていたわけです」

幼少期の記憶を掘り起こしながら、岩井監督はさらにこう続ける。

「戦争では“個”が滅却されます。でもそこにはたしかに“個”が存在しているはず。戦争をモチーフにしたエンタメ作品の文脈に、そういう考え方や視点を持ち込んだのが“ファーストガンダム”だったりするんじゃないですかね。

つまり、“個人”という小さなものと、“戦争”という大きなものを結びつけるようになった。そうしてクローズアップされるようになったのが、『ガンダム』シリーズにおける“ニュータイプ”や、“超人思想”、あるいはスピリチュアル的なものなんじゃないでしょうか」

天変地異と信仰宗教の台頭

1980年代後半から続いていたバブル経済が弾け、浮かれた気分からようやく社会が落ち着きを取り戻そうとしていた1995年に「阪神・淡路大震災」は発生した。兵庫県淡路島を震源とする直下型の大地震で、マグニチュードは7.3。

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あの当時において戦後最大規模の被害を出した災害で、『Love Letter』の舞台である神戸も甚大な被害を受けた。何か特定の教えを信仰していなかったとしても、人々はわらにもすがる思いだったのではないだろうか。岩井監督は次のように語る。

「たとえば超能力って、今ではフィクション作品の題材としてのみ成立するものだったりしますよね。けれどもあの当時はそういう力を手に入れて人間は進化していくものなんだという空気がたしかにあったんです。

現に信じている人たちが身近なところにいましたから。そのような風潮に、どうしても僕は乗ることができなかった。もちろん、映画やマンガに登場してくるものに関しては楽しみますよ。でも、フィクションの世界と現実は違う。そんな時代のムードに便乗してきたのがオウムなわけです」

麻原彰晃こと松本智津夫を教祖とするオウム真理教の前身団体である「オウム神仙の会」が誕生したのは1984年2月のこと。やがて組織は大きな成長を遂げ、社会の警戒心が高まっていくなか、1995年の3月20日に「地下鉄サリン事件」を起こした。

地下鉄サリン事件から30年 科捜研でサリン検出の研究員「想像していなかった」

時刻は午前8時ころの通勤ラッシュ時。霞ケ関駅に向かう千代田線、日比谷線、丸ノ内線の地下鉄内において、化学兵器であるサリンが散布された。“無差別テロ”だとされているが、それぞれの電車が向かった先は日本の中枢。ひとつの組織が国家の転覆を企んでいただなんて、まさに映画やマンガの世界の話である。

「こういう言い方は不適切かもしれませんが、起こるべくして起こってしまった気がしていました。すでにお話ししたように、やっぱり特異な時代でしたから。たとえオウムの信者でなくとも、彼らのような考え方を持っている人は少なくなかったんです。

僕自身はそことは距離を取って、あの時代における自分なりのテーマを掲げた。それが“野性”を取り戻すことです。文明の進化は、果たして本当に人間を進化させるのか、僕自身は疑問だった。あの時代との対話の中でこの考えにたどり着き、創作のテーマになっていったんです」

岩井監督はこうも語る。

「たとえば僕らの身の回りにあふれるガジェットだってそうですよ。誰かが作ったものを享受しているだけで、自分たちはその消費者にすぎない。それを利用している自分までもがすごい存在になったと思い込んでしまうのは、僕個人としては感情が合わなくなっていきました。たしかにテクノロジーは進化しているけれども、僕ら一人ひとりはそうじゃない。だから、自分の中に眠っているはずの“野性”を見つめ直す必要があったわけです」

忘れられない時代──1995年

岩井監督が「特異な時代だった」と語るように、特に1995年は大変な年だった。1990年生まれの筆者は5歳を迎える年で、物心がつくかどうかの幼少期。正直なところほとんど何も覚えていない。しかし、おぼろげな記憶ではあるものの、なにやら世間が騒がしかったことだけはうっすら覚えている。

四角いブラウン管の中に収まっている光景が何を訴えていたのか、おそらく何ひとつわかっていなかった。それでも、あの当時の社会の騒がしさには、幼いながらに気がついていた。新聞やテレビでマスコミが報じる情報に翻弄される大人たちが動揺しているのに、勘づいていたからなのかもしれない。当時の大人たちの当事者のひとりとして、岩井監督は何を感じていたのか。

「『Love Letter』の公開は震災から約2カ月後。オウムによる大規模テロから5日後のことでした。舞台あいさつのときには、被災された方々に対してお見舞いの言葉を贈りました。今でもよく覚えています。でもその一方で、『地下鉄サリン事件』がオウムの犯行だとわかったのは、それからまだ先のことです。

スピリチュアルなものに傾倒しがちなムードが社会に蔓延していたとはいえ、事件当時のオウムの認知度はそこまでではなかったというか。すべてのマスコミが取り上げるような存在ではなかったんです」

映画『Love Letter』【4K リマスター】 (C)フジテレビジョン
映画『Love Letter』【4K リマスター】 (C)フジテレビジョン
映画『Love Letter』【4K リマスター】 (C)フジテレビジョン

筆者は両親や祖父母から「もしも公園や道端でおかしな袋を見つけたら絶対に触ってはダメ」と繰り返し言われたのを鮮明に覚えているが、あれはいつごろのことだっただろうか。やがてオウムによるいくつもの事件が白日の下に晒され、世間はオウムの話題一色になっていった。

「1995年に入ってすぐに『埼玉愛犬家連続殺人事件』の犯人が逮捕され、連日のようにマスコミが報じていたのを覚えています。あまりにもグロテスクで、思い出すだけでも気分が悪くなりますよ。そして、その数日後に震災が起きました。

続いて『地下鉄サリン事件』です。あの1年を振り返ってみると、やっぱりオウムの印象が強く残っていますね。いくつものショッキングな事件にオウムが関与していたことがわかりましたし、テレビの生放送中に村井秀夫という教団の幹部が刺殺されたりもしました」

“野性”を呼び覚ます必要性

2020年にコロナ禍がやってきたとき、映画などのカルチャーは“不要不急”なものだとされた。1995年もまた非常に大変な時代の流れの中にあったわけだが、あの当時において『Love Letter』はどのような存在だったのだろうか。

「『ノストラダムスの大予言』がありましたからね。個々がどこまで信じていたかわかりませんが、まったく気にしていない人はいなかったはず。僕自身、36歳には死ぬんだと子供のころから思っていました。環境問題にも敏感でしたし、どうすれば地球が滅びずにすむのかを考えていましたね。そうした時代背景から当たり前のように生まれたのが“終末思想”で、“世紀末”という言葉が日常的に使われていました」

五島勉が著した『ノストラダムスの大予言 迫りくる1999年7の月、人類滅亡の日』(祥伝社/1973年)によって、1999年の7月に世界は滅亡するのだと信じている人々がいた。幼いころの筆者もそのひとりだ。果たして、本当にハルマゲドンはやってくるのか。

『ノストラダムスの大予言 迫りくる1999年7の月、人類滅亡の日』(五島勉/祥伝社/1973年)
『ノストラダムスの大予言 迫りくる1999年7の月、人類滅亡の日』(五島勉/祥伝社/1973年)

2000年という新しい時代の扉が開くのを5年後に控えていたとき、誰もが大きな不安を抱えていたわけだ。「たとえばディストピアだとか、フィクション作品のモチーフとして(ハルマゲドンが)頻繁に扱われるようになりました。それまで以上にSFが強い力を持つようになる時代だったんです」と、岩井監督は30年前のあのころを振り返る。

「この2025年になって、かつてSF的なものと見なされていたものが出そろいましたよね。“今”を描けば、そのすべてがあの当時でいうところのSFなんです。かつては誰かと生き別れてしまったら、ほとんどの人がそれっきりでした。

ところが今の時代は、顔も名前もよく知らない者同士が交流できるのが当たり前。“文通”をモチーフにした『Love Letter』は、未知なる他者との心と記憶の交流への憧れから生まれたものです。実はSF的な発想なんですよ」

これは意外だった。あの『Love Letter』がSF的な発想から生まれたものだなんて。筆者としては、あとに続く世代なりにあの当時の社会の背景と照らし合わせ、同作の誕生の経緯を想像していた。そして、そこにはまるで運命的な力が働いていたのではないかと思っていた。しかし、そういうふうに思えるのも、インターネットですぐさま情報を抽出することができるこの時代だからこそだ。

現代の私たちは今もなお、病気でもないのに病院のベッドの上で寝させられている状態にあるのだろうか。岩井監督が口にする“野性”を呼び覚ます必要性があるのかもしれない。

『Love Letter』【4K リマスター】特別動画[2025年4月4日(金)公開]

映画『Love Letter』【4Kリマスター】

映画『Love Letter』【4K リマスター】 (C)フジテレビジョン

公開:2025年4月4日(金)
監督・脚本:岩井俊二
出演:中山美穂、豊川悦司、酒井美紀、柏原崇、范文雀、篠原勝之、加賀まりこ
配給:東宝
(C)フジテレビジョン

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折田侑駿

(おりた・ゆうしゅん)文筆家。1990年生まれ。主な守備範囲は、映画、演劇、俳優、文学、服飾、酒場など。映画の劇場パンフレットなどに多数寄稿。映画トーク番組『活弁シネマ倶楽部』ではMCを務めている。

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