【新連載】お笑い平成カルチャー史 #0 ガラガラの2丁目劇場とダウンタウン(語り手:松本真一 聞き手:白武ときお)

編集=福田 駿 文=鈴木 工


千原兄弟、2丁目劇場、IPPONグランプリ、リンカーン、キングオブコント、ドリームマッチ、ケータイ大喜利、あらびき団、ざっくりハイタッチ、6人の放送作家と千原ジュニア…etc 平成のお笑いを彩るメインカルチャー。この連載では、千原兄弟の座つき作家として、数々のメインストリームの番組に携わる放送作家として渦中でお笑いを作ってきた松本真一氏に、当時視聴者としてテレビにかじり付いていた白武ときおが、お笑い好き少年さながら平成お笑いカルチャーを訊ねる。

今回の#0では、松本真一がお笑いの世界に飛び込んだ平成初期の風景を思い出す。

90年代を“コント一強”にした『ごっつええ感じ』

ある特番の収録で松本真一さんと一緒になって、お話しさせてもらったんです。僕が視聴者としてお笑いに夢中になっていた、平成お笑いのど真ん中で作家をやっていたのが松真さんで。その日に長いこと、めくるめく30年にわたる吉本を中心としたお笑いヒストリーを聞かせてもらって。

あったね。

そこからちょこちょこお話させてもらうようになったのですが、僕がたまたま聞けてる面白すぎる話が後続にも伝わった方がいいんじゃないかなということで……この連載では、いろいろお話聞を聞かせていただこうと思っております。一番最初、松真さんがこの世界に入ったのはもともと芸人スタートですよね?

そうね、大阪のNSCに入ったのが1991年やと思う。ジャリズムとかメッセンジャーと同期の10期生。ダウンタウンに憧れて芸人になった世代やね。そんなに頭もよくなかったし、就職もしたくなくてNSCに願書出したのよ。

養成所に入る前に、劇場がどんな感じなのか見とこと思って(心斎橋筋)2丁目劇場に行ったらバッファロー(吾郎)さんがネタやってたんやけど、客が僕ともうふたりぐらいしかおらんくて。これはえらいところに来たな~と思ったね(笑)。

当時は劇場に客がいなかったんですか? 2丁目劇場って賑わっているイメージだったので意外です。

その数年前(89年)にダウンタウンさんが東京に行ってしまって、同じくらいのタイミングで新喜劇が「新喜劇やめよッカナ?キャンペーン」(※)っていうのを打ち出して、吉本新喜劇の若返りを図ろうとした。今田(耕司)さん、東野(幸治)さん、木村祐一さん、130Rさんっていう2丁目のオリジナルメンバーのみなさんが一斉に劇場を抜けて、新喜劇に加入したのよ。2丁目劇場についていたファンが去ってしまって一時、劇場に来るお客さんが減って空っぽになっちゃった。2丁目としては仕切り直して劇場を盛り上げようという時期やったのよね。

※「新喜劇やめよッカナ?キャンペーン」:1989年に発表された吉本新喜劇の再生プロジェクト。観客動員数に高いハードルを設け、期限までに目標に達しなければ吉本新喜劇そのものを解体するというものだった。

松本真一(左)、白武ときお(右)

俺が養成所を卒業するころには『爆笑GONGSHOW』(関西テレビ)とか『怒涛のくるくるシアター』(読売テレビ)みたいな新人発掘番組で人気が出た雨上がり(決死隊)さんとかFUJIWARAさんのおかげで少しずつお客さんが戻ってくるようになって、もう少ししたら『すんげー!Best10』(ABCテレビ)で千原兄弟を中心とした2丁目ブームがもう一回来るんやけど。

当時の劇場はどんなお笑いが多かったんですか?

90年代、若手はみんなコントをやっていたと思う。漫才師はほとんどいなかった。2丁目ができた時にはアンチ花月が掲げられてて、その後当時の劇場支配人が漫才禁止令(※)を出したって聞いてるし、それもあるのかなと思う。

※漫才禁止令:1997年、心斎橋筋2丁目劇場で漫才の質が低下していたことを見かねた新劇場支配人によって通達された。2丁目劇場での漫才は禁止され、これによって中川家、海原やすよ・ともこが劇場を卒業したといわれている。

(吉本印)天然素材のみなさんもコント中心だったし、僕の同期だと、その後出てきた松口VS小林(ケンドーコバヤシとユウキロックが組んでいたコンビ)もコント。その下の世代で漫才やってるのって……中川家高僧・野々村、陣内(智則)が組んでたリミテッドぐらいだったかな。ほかにもいただろうけど、ダウンタウン以下の芸人さんで漫才をやってる人はとにかく少なかった。

当時、漫才は「古くてダサい」みたいな風潮ありました?

ダウンタウンさんが漫才で出てきたときは腹抱えて笑って「漫才ってこんなにオモロいの?」っていう衝撃を受けたけど、売れてテレビに出だしてから『(ダウンタウンの)ごっつええ感じ』(フジテレビ)とかまでずっとコントをしてはったいうのも大きいのかも。

『THE VERY BEST OF ダウンタウンのごっつええ感じ #1』

『M-1(グランプリ)』が始まるまで、テレビの中に漫才というものがとにかく少なかった。漫才は劇場でベテラン芸人さんがやるものだと思ってたし、僕が小学生のころは昼間のテレビで流れている漫才を観て、「また同じことやってんな~」みたいな印象だった。

ダウンタウンから始まった“踏んでないとこ探し“

その世代にとってダウンタウンさんの影響はもうすでに大きかったですか?

それはもちろん。『4時ですよーだ』(毎日放送)観たさに学校終わったらみんな走って帰っていた直撃の世代やから。というか、90年代、大阪のヤツは全員ダウンタウンシャワーを浴びてたんじゃない? それまで(母親を呼ぶとき)「お母ちゃん」って言ってたのに、松本さんのマネしてみんな「おかん」って言い出したし。

「サムい」とか「ブルーになる」も松本人志さんが作った言葉ですよね。

『ごっつええ感じ』を見てても、「その発想あんねや!」って驚くものばっかりやった。ものまね芸人が新しいものまねをしたら、「あ、そうやってモノマネすんねんや」って、やり方がわかるようにー五木ひろしだったら目を細めて、握りこぶしで絞った声出したらできるんだって、一発目のモノマネが生まれた瞬間に方程式がわかるやんかーダウンタウンさんは「そういうやり方がありなんや」という発明をものすごい数やってて、みんなダウンタウンのコントをやりたくなっちゃってた。

ダウンタウンさんのコントは当時、マネされてました?

う~ん。ダウンタウンさんが今までやってない笑いをボンボンやっていくから、笑いをやるということは誰とも被っていないところを開発するものやってみんな考えるようになってたかもしれない。「ほかの芸人がやってたら、こっちはせえへん」「先に踏まれたところは踏まない」というのは、もともとお笑いのルールとしてあったんやろうけど、それがダウンタウンさんで強化されたというか。やりたくなる一方で、「マネしてる場合じゃない。誰もまだ手をつけてないコントを作ろう」っていうのも、みんな共通意識としてあったと思う。それも結局、ダウンタウンさんの影響下にいる証拠なんやろうけど。

「踏んでないところを探して踏む」というゲームですね。

「それ、ダウンタウンさんがやったやつやん」と言われないようにしようというのは、みんなめちゃくちゃ意識してた。ダウンタウンが引き芸のスタイルでやってたから逆にポップな芸風になった芸人も多いと思う。それこそ当時のジャリズムはその影響で相当ポップにやってたような気もするし。

『放送室』(松本人志と放送作家・高須光聖によるラジオ番組。2001年4月〜2009年3月)でも、「10年後の芸人がどこも踏む場所がないくらい荒らしてやろう」とおっしゃってました。いろんな笑いのパターンがすでに踏まれていることに気づいたのはいつでした?

NSCに入って自分でネタを作ろうとしたときやね。「ちょっと待ってくれ。とんでもないことやられてるやん……」って。『ごっつええ感じ』はもちろん、ダウンタウンのコントは全部チェックしてたぶん、ほんまに全部踏まれてるやん!どうすんのこれ!って。

ダウンタウンとは一生絡めないと思っていた

のちにご一緒することになる千原兄弟さんのコント作りでは“踏んでないとこ探し”で苦労しました?

そうね。ジュニアさんは『ごっつ』を見てなかったけど、ダウンタウンさんとニュアンスが似ていることを言うことがあったから、このままコントを作り続けていったらいつか一緒になるな〜とは思ってた。だから、千原兄弟のネタ作りで『ごっつ』でやっていたようなコントのニュアンスや方向性が少しでも出てきたら、「こういうネタあったんですけど、どう思います?ありですか、なしですか」って判断を仰いで。

『千原兄弟はじめTOUR金龍飛戦1998 VERSION』

ジュニアさんはそこまで意識してないはずなのよ。でも途中から僕は勝手に対『ごっつ』みたいな気持ちでやってて、「『ごっつ』がテレビでどこまでできるか挑戦するなら、向こうにはできない、舞台でできる2Dの表現を突き詰めよう」みたいな対抗意識を持ってやってた。偉そうな話やけど。

松本さんが『ボクらの時代』(フジテレビ)で、お笑いを『五輪書』になぞらえて、漫才・コント・大喜利・トークで一番になると決めていたと言ってましたね。最後は「調和」ということらしいんですけど、あらゆるジャンルのトップオブトップを作ってますよね。

その5つ以外も踏んでるんじゃない?僕が作家にシフトしたころ、ダウンタウンさんたちが集まった、『摩訶不思議ダウンタウンの…!?』(ABCテレビ)っていうゲームコーナーや企画重視の1時間番組があったのよ。そこでいろんな発明がされてた。“罰ゲームの概念”とか、フリップ大喜利はそこから始まったと思う。「お題ってそういう風にするんや!」「こういう風に考えて書いて答えるんや!」って大喜利のシステムがそこでみんなわかっていった。ダウンタウンさんのそういう発明って劇場でもすぐできるからすごくて。寄席の間にみんなしてたもん。

今でこそ、YouTuberはテレビの企画をそのままやったりミーム的なノリがありますけど、芸人さんはそこのマナー全然ありますよね。当時、フリップに書いて答えるとか、コーナーをマネするのはありの認識でしたか?(笑)

「ネタはパクるの禁止やけど、コーナーはいいよな」みたいな都合のいい解釈をしてた。そもそも、ダウンタウンさんとは一生絡めへんと思ってたのよ。やからいいっていうわけじゃないけどね。でも僕、というよりジュニアさんが松本さんと交わるとは思ってなかったのよ。正直なことをいうと松本さんと仲よくせんといてほしいな、くらいまで思ってた。

次回に続く

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鈴木 工

(すずき・たくみ)ライター。雑誌『プレジデント』、『芸人芸人芸人』など、芸人関係からビジネスまで執筆する。

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