ryuchellへの誹謗中傷の背後にある何重もの社会の歪み

2023.3.3
ヒラギノ

文=ヒラギノ游ゴ 編集=梅山織愛


2022年8月25日、タレントのryuchell(りゅうちぇる)が妻・peco(ぺこ)との離婚、また新しい家族のかたちへの移行を報告した。またそれに際して、決断の前提となった自身の性別に関する違和感が語られた。

それ以来、ryuchellには常軌を逸した誹謗中傷が相次いだ。そうした反響に応答するかたちで、2023年2年10月にはふたりが並んで近況を語る動画が公開されたが、いまだふたりは無理解に晒されつづけている。

こうした一連の流れの背後には、切り分けて問い直されず絡み合う、何重もの社会構造の問題がある。

はじめに

この記事は、一連の状況を改めて整理し、身近な人がryuchellにヘイトを向けていることに心を痛めている人と分かち合うために書かれた。ヘイトを向けている当事者にも届くものになるよう努めたけれど、ヘイトに没入した人に考えを改めさせるのは本当に難しい。試みて、悩み傷ついたあなたが一番よくわかっていると思う。

だからどうか自分の心身の安全を最優先に、と言っておきたい。そうこう言っていられない事態だけれど、もし説得のためにこの記事のURLを相手に送ることがあっても、何かしら防御の構えを取ってほしい。たとえば送ったところでメッセージのやりとりをやめて通知を切っておくだとか、やりとりがすんだらすぐ思いを分かち合える別の人と話せるように約束をしておくだとか。

多くの経験者が語っているとおり、トランスフォビアや反マスク、カルト、陰謀論などに取り込まれた人を説得することは途方もなく困難で、苦痛を伴う。あまつさえこの件は前述のとおり何重もの社会の歪みが複合的に絡んだイシューだ。だからどうか、自分の心身の安全を最優先にしてほしい。

“感想を持たされる”暴力

まずもって、8月25日の報告は「報告」であって「相談」や「提案」ではない。視聴者に意見や了承を求めるものではなく、「こういうことになった」という話をしていた。パートナー同士セットで活動してきたことから、世間に伝える道理はあるにせよ、そもそも報告することだって義務ではない。

婚姻関係というごくプライベートなことが、著名人に限って報道されてしまうという問題が前提にあり、それによって見ず知らずの他人の結婚や離婚の情報を知らされ、知ったからには何かしらの感想を持たされてしまう。この“感想を持たされている”んだという点について自覚的でいたい。

婚姻関係に限らず、不倫や恋愛に関する報道も、本来侵されるべきでないプライバシーであり、当人たち以外誰にも口を出す権利も必要もない。そうであるはずなのに、つい自分の領分を見誤りがちだ。他人のプライバシーが毎日侵されている状況に麻痺してしまう。

主体的に感想を持ったつもりでいて“持たされている”状態だということ、知るべきでなかったことを“知らされている”状態だということを改めて認識すると、今回の件はもうここで話が終わる。ネガティブだろうがポジティブだろうが感想を持つこと自体筋違いで、そもそも他人がどうこう語るべきでない話題だということ。そして自分たちが“感想を持たされる”というかたちの暴力を受けているという自覚に至る。

家父長制による抑圧の代償行為

ryuchellに向けられているヘイトは、これまでryuchellが背負ってきた期待からの反転によってここまで常軌を逸したレベルに加熱している。その期待とはある種の理想の夫/父/男像。

妻を心から愛し、家事育児をし、女性が直面させられているさまざまな困難に関する理解が日々の言動から窺い知れる。その上でこれまでの社会が夫/父/男に要請してきた価値、いわゆる“甲斐性”がある。

そういった面から高まった期待が“裏切られた”ことにより、好意がひっくり返って苛烈なヘイトとして燃えさかっている。ただ、「期待が裏切られる」という言葉を使うときに注意したいのは、“裏切られる”とはいってもその期待の持ち主はあくまで自分だということ。自分の中で育んだ期待を相手の実存と照らし合わせたときに“思ってたのと違った”としても、相手に非はない。

本件に関していえば、「夫」という肩書ではなくなるにせよ、pecoと人生の大きな部分を共有するパートナーでありつづけることは当人たちの間で合意に至っている。親(本人の表現では“父親”)としての役割も変わらず果たしつづけている。そして男であるか女であるかそれ以外のなんであるかという話は完全に本人の自己決定の範疇で、誰であっても介入できない。

しかし、「子供を作っておいて今さら夫でいるのを辞めるなんて無責任」といった観点からのバッシングはあとを絶たない。この源流には、現状の社会に対する行き場のない不満がある。今にも社会が瓦解しかねないほどに鬱積した不満が、ryuchellという筋違いな“行き場”へ向けて放たれている。

夫からの家事労働や育児の丸投げ、父親による抑圧、世の男性からのハラスメントや賃金格差。すべては家父長制という社会構造に原因があるはずが、藁人形としてのryuchell一個人に仮託されている。peco以外のすべての人にとって無関係であるはずのryuchellに。まさにこれこそが家父長制の手のひらで踊らされている状況だ。

認識を歪めて、異議申し立ての相手を見誤らせる。つまり、本来責任を追及されるべき特権階級の男性たちに矛先を向けさせない強烈なバイアスを刷り込むことこそが、家父長制の最たる醜悪な特性だ。

そして、代わりにryuchellのような特徴づけられた個人や、この社会構造に適応できた一部の女性、性的マイノリティを敵だと誤認させ、共闘できるはずの相手へ憎悪を向けさせる。我々の世界のいつもの光景だ。

性的マイノリティへの無理解

前述の「子供を作っておいて今さら夫でいるのを辞めるなんて無責任」といった語り口についてもう1点言えることは、性的マイノリティについての無理解、特に性の「流動性」の概念の欠如だ。

誹謗中傷の言葉から窺い知れるのは、ジェンダーが本人の意思で変えられるものであるという誤解だ。そしてそもそもジェンダーを変える/変わると言うときに思い浮かべている状態の誤解もあると推測できる。

誹謗中傷をしている人の多くは、ryuchellが「男性」から「男性ではない何か」に変わろうとしていると認識しているように見受けられる。しかし、クィアスタディーズにおいてより正確なのは、「変わった」というよりも本来あるべき姿に「回帰」しようとしているという認識。

つまり「変わっていた」のはこれまでのあり方であって、時間をかけて自分の「本来」の姿を探し当て、これからはそうあろうとしている、ということ。こうした発想は、性の「流動性」という概念に立脚する。性は必ずしも固定されたものではなく流動的であり得るし、それはまったく異常な状態ではないということ。

また、どう流動するか・あるべき姿がどういったものであるかは本人にコントロールのしようのない場合がほとんどだ。Netflix『アンブレラ・アカデミー』で知られる俳優のエリオット・ペイジは、レズビアン女性を自認する期間を経て現在トランスジェンダー男性として存在している。ryuchellの場合も本人の預かり知らないタイミングで自覚の時が訪れたと捉えるのが自然であり、「無責任」もなにもryuchellに責任はない

こういった認識のアップデートを受けて使われなくなった言葉がいくつかあり、「性転換」がそのひとつだ。

たとえばトランスジェンダー女性は最初から今現在までずっと女性であり、断じて男から女へ「転換」=「変わる」のではない「女の体」や「男の体」というものは存在しない。どんな体であっても女性であり男性であり得る。ただ、身体をより自分の望むかたちに「移行」したいと願う人がいる(全員ではない)。そういった人に提供される手術はかつて「性転換手術」と呼ばれていたが、現在では「性別適合手術」と呼ばれている。性別を「変える」のではなく、ずっと変わらず持ってきた性別に身体を「適合」させるということ。

「トランスジェンダー問題」
『トランスジェンダー問題』ショーン・フェイ 著/高井ゆと里 訳/明石書店

こんな妊娠を罰するかのような無理解極まりない社会構造のなか、怨嗟が募るのは当然のことだ。ただ向け先が違う。ふつふつと沸き立つものを目先のわかりやすい生贄にぶつけず、社会構造を変えるためのエネルギーとして活かしている人がたくさんいる。手本になるのはそういう人たちのほうだ。

おわりに

この記事は、ryuchellが今自認する性のあり方が何であるかを推定せずに書かれている。執筆時点までにryuchell本人から発信されている限りどうとも断言していない以上、断じて踏み込んではならない領域だからだ。

婚姻関係や恋愛についての報道以上に、性のあり方については報道が介入すべきではない。また報道でなくても、性のあり方を暴くようなものではなくても、他人の性について語ること自体が暴力性と無縁ではいられない。だからryuchellについて書くことをずっと避けてきた。書かざるを得ないほどの状況がつづいていることが悔しくてならない。

この記事がせめて本人やpeco、本人に健やかでいてほしいと願う人たちと分かち合えるものであることを願う。

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