長友佑都は『水平線』三笘薫は『異常 アノマリー』ワールドカップ選手を見立てて2022年最強文芸ベストイレブン選んでみた(書評家・豊崎由美)
書評家・豊崎由美の年始恒例企画「スポーツの見立てで紹介するベスト本」企画。2022年といえばもちろんワールドカップの日本代表選手。大活躍の選手を見立てた本のベストイレブンを発表する。
目次
ワールドカップの日本代表選手を11冊に見立てる
この連載を始めて以来、年頭に続けている「見立てで紹介する前年読んだオススメ本」企画。2021年は福岡ソフトバンクホークスのスタメン(バカ強いホークスに負けない!<2020年最強文芸ベストテン>読んだ本の中から強いスタメンを組んでみた)、2022年は青山学院大学の駅伝メンバーになぞらえて、小説を紹介してきたわけですが(豊崎由美の「極私的文芸2021年ベストテン」発表!「史上最強文芸軍団」は箱根駅伝・青学チームにも負けない)、今年取り上げるのは、もちのろんでワールドカップの日本代表選手です。
とはいえ、サッカーに関してはにわか仕込みの見識しか持たない身ですので、通の方からすれば「ケッ」てな選手選択や紹介になってしまうかもしれません。「小説オタクがサッカー人気に便乗してなんか言っておるな」程度のぬるーい目で読んでいただけると幸いです。
紹介するのは、昨年この欄で紹介できなかった小説の中から選んだ11作品。常ならぬ長文になってしまうことが予想できますが、おつきあいいただけたら嬉しいです。
権田修一は『地図と拳』
まずは、GKの権田修一選手。対ドイツ戦における4連続シュートのスーパーセーブには心拍数爆上がりでしたが、2022年の日本文芸界にもいるんですよ、そんな絶対守護神が。第168回直木賞の絶対受賞作(この原稿を書いているのは1月10日で、受賞作が発表されるのは1月19日)、小川哲の『地図と拳』(集英社)です。
1899年の夏。満州を勢力下に置き、朝鮮と台湾に手を伸ばすことで日本の脅威になりつつあった帝政ロシアとの開戦の可能性を調査することを命じられた高木が、通訳の細川を伴って、ハルビンを目指す船の上にいる光景から、50余年に及ぶ長い物語は滑り出します。高木はやがて起こる日露戦争で凄まじい戦死を遂げることになるのですが、弱々しい21歳の大学生として登場する細川は、満州を主な舞台に展開するこの物語の最重要人物として今後幾度も現れることになるんです。
科挙に5回落ちるも説話人として人気を博すようになり、やがて李家鎮という集落の屋敷を買い取り、その主である李大綱になりすますことに成功した周天佑。大学で地理学を学んだせいで満州に鉄道網を広げるための地図作りの任につき、後に現地に残って布教を命じられることになる宣教師のクラスニコフ。神拳会という新しい武術の過酷な修行の末、“死なない”肉体を手に入れて自らを「孫悟空」と名乗り、やがて李大鋼を殺して李家鎮(後に仙桃城と改名)を我が物にする楊日綱。黄海にあるとされる青龍島という小さな島が実在するかを調べることになり、その報告書の素晴らしさに目を留めた細川によって満鉄に引き抜かれ、〈満州という白紙の地図に〉〈理想の国家を書きこむ〉仕事に就くことになる須野。須野の息子で、人間計測器ともいうべき異能を発揮することになる天才・明男。孫悟空の血のつながらない末娘にして抗日戦士である丞琳。日本と天皇陛下のために〈修羅〉になることも辞さない憲兵の安井。仙桃城を満州民族、漢民族、日本人、ロシア人、朝鮮人、モンゴル人、争いの歴史によって犠牲になったすべての死者が共生できる〈虹色の都市〉にしたいと願う細川。
などなど主要登場人物だけで20名は下らない面々が、中国東北部は奉天の東にある町・李家鎮/仙桃城で、満州国の消滅と日本の敗戦へと至るまでの年月を、それぞれの運命と使命を交錯させながら生き抜いていく。立場や思想信条を違える人々の姿を描いて、重層的な物語になっているんです。
作者は、戦争中に起こったあらゆる事柄を相対化し、さまざまな運命や使命を帯びた大勢のキャラクターの声に公平に耳を澄ませます。地図と拳のロジックを五感をフル稼働させて考え抜いています。個性際立つキャラクターたちの蠱惑的なエピソードをこれでもかと投入し、史実に空想というアレンジを加え、「現代から過去の歴史を総体的に見直すことで、2022年に生きるわたしたちの未来を視る」という壮大なモチーフを変奏した傑作歴史小説なのです。
長友佑都は『水平線』
続いてDF陣。
若い選手を鼓舞し続けた長友佑都選手に見立てたいのが、わたしが昨年読んだ日本の小説の中でもっとも目を瞠った「ブラボー!」な長篇小説、滝口悠生『水平線』(新潮社)です。
両親の離婚によって名字を違える2歳差の兄妹、横多平と三森来未。『水平線』は、このふたりが経験する時空を超えた不思議な出来事の数々を通して、太平洋戦争末期に激戦地となった硫黄島に生きた人々の姿を今に蘇らせます。
東京オリンピック開催で盛り上がっている2020年夏。祖母の妹で、1968年の秋に蒸発して行方も生死も定かではない八木皆子からの〈おーい、横多くん〉から始まるメールに誘われるように、小笠原諸島の父島を訪れた平。
新型コロナウイルスの蔓延によって、東京オリンピックが延期になった2020年夏。祖父の末の弟で、1944年に硫黄島で亡くなった三森忍から〈ああもしもし、くるめちゃん?〉と電話がかかってくるようになった来未(くるみ)。
1944年、硫黄島を対アメリカ戦局において要塞化するため、内地に強制疎開させられた硫黄島の住民たち。終戦後はアメリカの施政下に置かれ、1968年に日本に返還されたものの、今に至るまで元住民の帰島は許されていません。平と来未の祖父・和美と祖母・イクは疎開組だったのですが、和美の弟である達身と忍は軍に徴用され島に残って戦死したのです。
でも、そうした硫黄島で起きたことや祖父母世代の体験を、現代に生きる兄妹の目を通して描くという、よくあるわかりやすい語りを作者はとっていません。東京オリンピックが開催されている世界と、新型コロナウイルスが猛威をふるっている世界。ふたつの異なる世界線で、平と来未はスマホを通して死者と交信し、祖父や祖母の世代が経験した戦争を体感していくことになります。生者と死者が時空を超えて語り合うばかりか、時に両者の意識は混ざり合い、死者たちの記憶もまた他の死者のそれとシンクロしと、いくつもの語りのレイヤーを作り出す手際が自然すぎて、読んでいるうちに、そこで起きる不思議の数々を不思議と思わなくなっている自分に気づく。そんな稀有な体験にいざなってくれる語り口になっているんです。
大勢の声がさまざまなトーンで聞こえてくるポリフォニックなこの物語からは、水平線の向こうにもある海、どこへだってつながっている海、その海が象徴する自由を希求した戦時下の若者の思いがビンビン伝わってきます。硫黄島のかつてと今の姿や、そこで起きたこと起きてほしかったこと、島の人々の生と死が渾然一体となって語られていく最終章は圧巻のひと言。あまりの素晴らしさに、トヨザキ落涙いたしました。
吉田麻也は『雨滴は続く』
日本人離れしたフィジカルの強さを誇りながらも、コスタリカ戦で見せたやらかしなど、時に大ポカをしでかしてしまうキャプテン吉田麻也選手。その毀誉褒貶ぶりに重ねてしまうのが、文壇最後の無頼派として2022年2月5日に急逝した西村賢太の未完の遺作『雨滴は続く』(文藝春秋)です。
この小説で描かれているのは、同人誌に掲載された「けがれなき酒のへど」が2004年に「文學界」に転載されてから、芥川賞に初ノミネートされるまでの約2年間。物語にはふたつの柱があって、ひとつは職業作家になっていく過程と、もうひとつは「おゆう」こと川本那緒子と北陸の地方新聞社の記者・葛山久子を両天秤にかけて、結局一兎をも得ずの顛末です。後者にはいつもながらの賢太節が炸裂していて──。
ただで女体にありつきたいがために恋人が欲しいと熱望していたら、自称31歳のデリヘリ嬢・おゆうと出会い、狙いを定める。→2回目に呼んだ時、デートをしてくれと懇願する。→そんな折り、没後弟子を名乗って崇拝している藤澤清造の月命日で訪れた石川県の菩提寺で20代の新聞記者・葛山久子に一目惚れ。→おゆうのことはどうでもよくなり、〈あんな淫売ババアは、所詮、ただのババア淫売である〉と酷い言い草。→一方、久子には新進作家としての自分をアピールするために、書いたものが掲載されている文芸誌などを送りつけるも、事務的な礼状しかこない。そっけない絵はがきが来るにいたってついに〈間の抜けた口臭女めが!〉と怒り爆発。→やっぱり自分にはおゆうしかいないと思い直し、交際を申し込む。→ところが小説執筆依頼が来ると、おゆうに会いたいという気持ちは消え失せ、葛山久子の面影が蘇る。新進作家の自分には高学歴の葛山のほうがふさわしく、お金の面でも頼りになると妄想。→おゆうからの連絡は一切無視。→しかし、書評や小説の掲載誌を送っても葛山からは返事がこない。→人恋しさから〈おゆう、復活!〉となるも、着信拒否されているのか連絡することができない。
と、相変わらずの女性の敵っぷりを発揮しまくるこの展開が、苦笑失笑爆笑を巻き起こすんです。一方でプロの小説家になっていく過程を描くくだりでは、これまでになく執筆方法や小説観を明かしていて、西村賢太の作家としての貌を垣間見ることができる。自分の卑小さや下劣さと向き合い、偽悪的なまでに描ききる賢太の私小説が、いかに細やかな計算と巧緻なテクニックで成立しているかがよくわかる、最高傑作といっていい出来映えになっているんです。
芥川賞受賞までが描かれるはずだったこの作品で、賢太は自分の文章を「雨滴」になぞらえています。だけど、その雨滴はもう続くことがない。慊(あきたりな)い。慊いったら慊い!
谷口彰悟は『陽だまりの果て』
31歳でW杯初出場(しかもスペイン戦デビュー!)を勝ち取った遅咲きの花にして、ハイブランドのモデルにも起用されたイケメン谷口彰悟に見立てたいのは、2013年に55歳で作家デビューし、変幻自在の美しい文章表現が見事な大濱普美子の短篇集『陽だまりの果て』(国書刊行会)です。
〈廊下を、人気のない廊下を、ずっと奥のほうへと辿っていったところに、陽だまりがある。いつもそこのところに立ってじっと見ているのではないが、ほんとうはそこにそうして立って、じっと見ていたいのだが、ずっと奥の行き止まりまで行けば、いつもそこにある。
廊下の、少し薄暗い廊下の奥の行き止まりのところに扉があって、やけに頑丈そうなその扉の上半分に、分厚くて丈夫そうな硝子が嵌まっている。その分厚くて丈夫そうな硝子板から陽が入って、廊下のつるりとした床の上に陽だまりが落ちている〉
冒頭のこの文章が異文(ヴァリアント)として幾度か繰り返される表題作「陽だまりの果て」は、施設に入居している〈ナカヤマさん〉と呼ばれる老人が、この陽だまりが射す場所に引き寄せられるように過去へ過去へと呼び戻されるという老境小説です。
ヴァリアントのスタイルで繰り返される老いの心境を、作者はナカヤマさんの目に映る現実の描写と幻想の光景の描写、双方ともに唯一無二といっていい表現力によって伝えてみせます。引用の誘惑に駆られる見事な文章の連なり。それを無心にたどっていく目の快楽。
そういうバリバリの純文学作品だけでなく、少女小説、シスターフッドもの、オートフィクション(海外における私小説のようなもの)、SFと、さまざまな意匠と表現の多彩と多才に驚かされるラインナップになっている短篇集なんです。
板倉滉は『見果てぬ王道』
イングランド、オランダ、ドイツのチームを渡り歩いてステップアップし続けている対人守備に強い板倉滉選手には、人間を見る眼差しが深い川越宗一の『見果てぬ王道』(文藝春秋)を当てはめてみます。
力で人を従わせる者が覇、仁で人を集める者が王。〈西洋の覇道に、東洋は王道をもって向き合うべし〉という志をもって、清王朝を倒し共和国を作る革命を起こそうとしている孫文と出会って惚れ込み、物心ともに支える人生を歩んだ稀代の実業家・梅屋庄吉にスポットライトを当てることで、日本と中国の歴史を、政治と軍事ではなく民事として描いた歴史小説になっています。
長崎の貿易商・梅屋商店の養子に入り、ありあまる情熱を何に注げばよいかわからないまま懊悩する十代を過ごした後、アメリカ留学を決意するも船が転覆し、九死に一生を得る。商売に失敗し、逃げるように渡ったシンガポールで写真館を開き、香港に拠点を移すとそれが大成功。そこで出会った孫文と生涯の友情を切り結ぶ。
アメリカ行きの船の中で親しくなった清国の青年がコレラに罹り、生きたまま海に放りなげられるのを止められなかった悔しさを、強者が弱者に対して成す理不尽への怒りを、常に胸に抱き続けた。だから、孫文ばかりかフィリピンの独立運動の支援もし、そのためにガンガン金を稼ぎ、ピンチをチャンスに変えていきつつ、日活の前身となる映画の興行会社を設立。やがては政財界の大物と対等に渡り合える日本有数の富豪になるという、波瀾万丈にもほどがある庄吉の人生に圧倒されること必定です。
庄吉だけではありません。彼と関わる人々、とりわけ女性陣の魅力も一読忘れがたい強い印象を残します。庄吉にものの道理と倫理を教え込んだ母のノブ。シンガポールで出会い、写真館を共同経営することになった元娼婦の登米。大きな体で家事や子育てにきりきりと働く妻のトク。孫文の晩年を公私ともに支えた、年若く聡明な妻の慶齢。
作者は、正義と王道の実現にはやる主人公を、女たちによる別角度の視線からも描くことで、この物語を単なる英雄礼賛譚とは異なる、生身の人間のきれい事ばかりではない奥行き豊かなヒューマンドラマに仕上げているんです。
遠藤航は『シャギー・ベイン』
お次は、MF陣。
ユーティリティプレーヤーとして献身的なふるまいが美しい遠藤航選手にぴったりくるのは、ダメな母親を支え続ける主人公のアダルトチルドレンぶりが切なくて胸をえぐるダグラス・スチュアートの『シャギー・ベイン』(早川書房)です。
舞台となっているのは、イギリスはスコットランド最大の都市グラスゴーの貧困地区における1981年から92年までの12年間。主人公少年シャギーの5歳から17歳までの日々が綴られていきます。
シャギーの母アグネスは往年の大女優エリザベス・テイラー似の美人なのですが、キャサリンとリークというふたりの子供までもうけた実直な夫に退屈しちゃって、ワイルドな魅力をまとうタクシー運転手シャグと駆け落ちし、再婚するんです。こうして生まれたのがシャギーなのですが、シャグは女癖が悪く、おまけに粗暴。アグネスは浮気に耐えかねて離婚し、そのつらさから逃れるようにアルコール依存症になってしまいます。
アグネスの両親が住む低所得者向け高層アパートメントでの肩身の狭い同居、閉鎖された炭鉱町のみすぼらしい集団住宅での惨めな暮らし。生活保護のようなお金が入ってきても、酒に変えてしまうアグネス。そんな母親であっても愛することをやめられないシャギーは、やがてヤングケアラーとして成長していきます。
貧富の差を拡大した悪名高きサッチャー政権時代を背景に、男性優位主義がはびこるマッチョな炭鉱町で、「ナヨナヨするな」といじめられて育つシャギー。姉と兄が家を出ていけば、泥酔しては自傷行為をはかる母親をひとり見守り続けるシャギー。母と子の間に存在する他の何にも似ていない絆、美しいばかりではなく時に醜悪だったり歪だったりもする紐帯という特別な関係がまとう光と闇の落差をこれほどまでに鮮やかに描ききった作者の筆力に舌を巻く1作です。
田中碧は『喜べ、幸いなる魂よ』
豊富な運動量とずば抜けた判断力で、相手にボールを渡さないプレースタイルが魅力の田中碧選手にふさわしいのは、日本が世界に誇るべき小説家、佐藤亜紀の『喜べ、幸いなる魂よ』(KADOKAWA)です。
舞台となるのは18世紀半ばのベルギーはフランドル地方です。ヤネケとテオは亜麻糸商として成功した父ファン・デール氏と、しっかり者の母のもとに生まれた双生児。好人物のファン・デール氏は共に商売を始めた盟友が亡くなると、その息子ヤンを引き取り、ヤネケとテオとヤンの3人はきょうだいのように育てられていきます。
とてつもなく頭が良く、知的好奇心旺盛なヤネケ。人気者のテオ。慎重派のヤン。一度関心を抱くと徹底的に追究しないではいられないヤネケは、14歳になるとヤンを誘って性交に夢中になり、やがて妊娠してしまいます。ところが――。
信仰熱心な単身女性たちが同じ界隈に集まって自活しながら貧者や病者を助ける、互助会のような組織「ベギン会」に入っている叔母のもとで出産するも、我が子が里子に出されようが平気の平左。ヤネケを心底愛していて、しかるべき年になったら彼女と結婚し、子供を一緒に育てたいというヤンの願いもむなしく、ベギン会での生活が気に入ったヤネケはそこで研究に没頭し、女である名前では門前払いを食わされるからテオの名を借りて論文を発表するようになります。
母性や女性性に無関心で、ヤンの手助けはしながらも妻になりたいとはさらさら思わないヤネケ。ヤネケと一緒になりたい思いとヤネケが夢中になっていることを邪魔したくない気持ちの間でもやもやを抱き続けるヤン。
このふたりの50年近くにわたる関係を軸に、女性と自活、ミソジニー(女性嫌悪)が生まれるメカニズム、男と女の理想的な関係、知識や教養が持つ意味、産業の発展による搾取の構造の変容といった現代にも通じる複数のテーマが、趣向に富んだ物語の中で展開されていくんです。
ヤネケの自由を尊重したヤン。功名心のかけらもなく、自分の名で本が出版されないことにも〈知識なんて別に誰のものでもないんだし、正しい筋道は誰が言ったって正しい筋道だからね〉と涼しい顔をしながらヤンの手助けもし続けたヤネケ。恋愛よりも尊い、人間同士の友愛の関係を深めていったこのふたりの姿は、国や人種、性の違いを超えて普遍的な理想形です。でも、ヤネケから育児放棄された息子はというと……。このキャラがどう育っていくかも楽しみに読み進めていってください。
三笘薫は『異常 アノマリー』
「1ミリの奇跡」と呼ばれるパスで幼なじみ田中選手の決勝弾を導いたドリブルの魔術師・三笘薫選手には、トンデモSFまであと1ミリというギリギリの線で傑作になりえているエルヴェ・ル・テリエ『異常 アノマリー』(早川書房)を重ねます。
この作品、まずは一見関係がなさそうな人々のエピソードを描くところから始まります。
良き家庭人である裏に凄腕の殺し屋の顔を持つブレイク。43歳のパッとしない小説家ミゼル。映画の編集をしている美しきシングルマザーのリュシー。彼女に執着している初老の建築家アンドレ。病気の妹の治療費を稼ぐためにきな臭い製薬会社の顧問弁護士を務めている弁護士のジョアンナ。ヒップホップスターのスリムボーイなどなど。
彼らの共通点は2021年3月、エールフランス006便で、凄まじい乱気流に見舞われるも生還を果たしたこと。ところがその3カ月後、同じ乗員乗客を乗せた旅客機が出現するんです。つまり同じ人間がふたり同時に存在するということ!
物語後半は、科学から宗教まであらゆる叡智を結集して、この現象の謎を明かしていくのですが、トンデモギリギリのSFにとどまらず、ミステリー、ノワール小説、理系小説、恋愛小説と、いろんなテキストの読み心地が味わえるのが、本作最大の美点。知的エンタメ小説としてオススメです。
伊東純也は『鑑識レコード倶楽部』
実はわたしもファンだったりするスピードスター、伊東純也選手には、異様なまでにミニマムでスピーディな文体が特徴的なマグナス・ミルズの『鑑識レコード倶楽部』(アルテスパブリッシング)を見立てます。
フェンス職人トリオが昼はのらくら働き、夜はパブで飲む→何かの拍子で依頼人が死ぬ→「ま、いいか」と埋めてしまう→別の農場にフェンスを張りに行く→昼はパブで……。この繰り返しが描かれているだけなのに滅法面白い『フェンス』をはじめ、奇妙な作品ばかり書いている作家がマグナス・ミルズです。
凝った文章表現なし、比喩は一切なし。ところが、その無表情かつ速い文章の積み重ねが、なぜか笑いや驚きを生む。書かれていないところに、さまざまな解釈が生じる。『鑑識レコード倶楽部』も、そんな稀有な体験をもたらすヘンテコ中のヘンテコ小説なんです。
〈レコードをじっくり、綿密に聴くことだけを目的にした〉感想や批評を一切口にしてはいけない倶楽部を、ジェームズと一緒に作った〈俺〉。数人の仲間が集まるものの、やがて〈告白レコード倶楽部〉なるものが出来て、人気を博すようになる。そればかりか、ルールに厳密なジェームズを嫌った仲間の一部による分派的な倶楽部まで生まれてしまい――。
登場人物の過去や背景を一切説明せず、中心となるのはただただ膨大な数のタイトルのレコードを聴くシーンばかり。にもかかわらず、この小説は読者を雄弁にさせてしまう。それぞれの倶楽部の鑑賞スタイルは批評のそれに似ているな。倶楽部は政治や宗教、いやあらゆる集団の謂いになっているな。出てくるレコードのタイトルには何かしらの意味があるのではないかな。作者は何も主張してはいないのに、読み手が勝手にあれこれ考えてしまうという、実に不思議な小説。ヘンテコ王ミルズの面目躍如たる1作なのです。
堂安律は『ブッチャー・ボーイ』
大口を叩きながらも、ちゃんとそれをプレーで証明してみせる。やんちゃさと外野を黙らせる実力を兼ね備えた堂安律選手には、超弩弓の反逆児が登場するパトリック・マッケイブ『ブッチャー・ボーイ』(国書刊行会)がいいんじゃないかなあ。
〈いまから二十年か三十年か四十年くらいまえ、ぼくがまだほんの子供だったときのこと、小さな田舎町に住んでいたぼくはミセス・ニュージェントにやったことが原因で町のやつらに追われていた〉
そんな一文から始まる物語の語り手は、精神病院に収容されているフランシー・ブレイディーという中年男です。舞台は、フランシーが子供だった1960年代初頭のアイルランドの田舎町。
かつては腕利きのトランペッターとして有名だったのに攻撃的な飲んだくれになり果てた父親と、精神が不安定で時々〈修理工場〉(=精神病院)に入院させられてしまう母親のもとにあっても、フランシーは親友のジョーと愉快な毎日を送っていました。そんな日々に陰りが射すようになったのは、フィリップ・ニュージェントが転校してきてから。
それまでロンドンで暮らしていたものの、この町出身の両親と一緒に帰ってきたフィリップはコミックブックをたくさん持っていて、フランシーはそれを巻き上げてしまったんです。怒ったミセス・ニュージェントが発したのは〈あんたらはブタよ〉という罵声。それはフランシーにかけられた呪いとなって、以降、物語の中に響き続けることになります。
ロンドンで働いている自慢のアロおじさんが帰ってきたクリスマスに、父親からおじさんが向こうで出世を遂げているなんて嘘だという真実を告げられ、傷心から家出。帰ってきたら母親は自殺していて、フランシーは自分と母に放たれた〈あんたらはブタよ〉という呪いに導かれるように、ニュージェント家に忍び込んでしまうんです。
家を荒らし、ウンコをたっぷり残す事件を起こしたせいで、不良少年が収容される矯正職業学校に送られて以降は転落の一途。施設で神父から性的虐待を受け、そこを出て大好きなジョーに会いに行っても居留守を使われてしまう。中学生になったジョーはフィリップと仲良くなっていて、小学校も卒業しないまま肉屋で働くようになったフランシーは、親友の気をひくためにプレゼントを買って待ち伏せするのですが──。
フランシーに見舞う、あるいはフランシーが引き起こす不幸は、これで終わったりはしません。彼の行く末には凄惨な殺人事件が待ちうけています。
貧しいわが家の唯一の自慢だったネロおじさん、ものごころついて以来仲良くしているところを見たことがない両親の幸福に包まれていた新婚旅行のエピソード、大好きな大好きな大好きな親友ジョー。フランシーのたった3つの希望がひとつひとつ失われていくさまが、子供の頃の精神レベルのまま大人になった彼の前のめりな語り口で描かれていく。回想は時系列どおりには並ばず、不安定な心を象徴するかのようにあちらこちらに飛び、物語は狂気と正気、妄想と現実を両輪につけて疾走する。
差別を内在化した社会の恐ろしさ、孤独が生み出す悲劇が読み進めるほどに痛みとなって胸を突いてくる小説。フランシーは21世紀にも存在します。30年前に書かれたとは思えない、今を突き刺す小説なのです。
前田大然は『ハイドロサルファイト・コンク』
最後はFWの前田大然選手。
最高速度36.9kmという驚異のスピードが持ち味の前田選手に当てはめてみたいのは、スキンヘッドつながりで花村萬月の『ハイドロサルファイト・コンク』(集英社)です。
これは、骨髄穿刺と遺伝子検査の結果、「前白血病状態」との診断を受けた2018年3月中旬から、約3年間に及ぶ闘病の日々を描いたノンフィクションノベル。凄まじいという感想しか生まない重い病との戦いの日々が描かれています。
にもかかわらず、〈私〉の記述に悲壮感はまったく見当たりません。やきもきしているのは読んでいるわたしだけで、作者は自身の病状や痛みを観察者のような目で、なんなら好奇心いっぱいの筆致で記録していくんです。
愛読者なら先刻承知のとおり、花村萬月という小説家には、たとえ作品の本筋を壊しかねなくとも、自分が説明したいと思った事柄に関してはとことん語り尽くさずにはおられない偏執狂的な面があります。生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされてもこの性癖は変わらず、とてつもない苦痛を伴う治療の過程は言うに及ばず、触れておきたいことを思いつけば、その都度マニアックなまでに緻密なタッチで解説と描写を重ねていくんです。この異様な胆力と集中力はどこから生まれてくるのか!
しかも、そんな壮絶な治療のさなかにあっても5つの連載をこなし、あろうことか新しい小説まで書きだしてしまう。モルヒネによる半覚醒状態のまま、自然科学、宇宙科学、歴史、宗教の教養を総動員し、聖と俗、知と痴、美と醜、慈愛と残酷など相反するものの間で闊達に戯れる筆致で描いた物理の聖典『帝国』のようなマルチバースSFまで書き上げてしまう。まったくもって全身小説家、いや、小説怪獣ですよ、花村萬月は。感動や感銘を通り越して、呆れかえってしまう超異色の闘病記なのです。
あ~、疲れた。全11作品を紹介し終えて、トヨザキ、疲労困憊。でも、この中の1作でも読んでいただけたら疲れた体に鞭打って喜びの舞を踊ってみせましょう(ウソ)。
配信サービスで魅力的な映像作品を「これでもかっ」とばかり見ることができる今、頭を使って理解しなくちゃいけない活字文化は苦境に立たされています。なにとぞ、なにとぞなにとぞなにとぞ、小説も読んでやってください。土下座。
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