松本人志による上島竜兵の死についての発言から、生者と死者の非対称性を考える
生者は「こうあってほしかった」という思いから、死者に対しての記憶を塗り替えてしまうことがある。ダチョウ倶楽部・上島竜兵の訃報に対しても、一方的な憶測による“代弁”がなされた。
生者は死者とどう向き合うべきなのだろうか。生者と死者の関係だけではなく、不均衡が生じた関係性での対話について考える。
フリルの呪物に包まれて
恋人が似合わない服を着てきた。
10代の終わりのころ。彼女はクローゼットの中をモノトーンで統一していて、シックで凛としたスタイリングの人だった。実際の年齢よりも上の世代に見られる、それでいて背伸びした感じのしない風格があった。
その彼女が、裾にフリルをあしらったパステルカラーのワンピースを着てきた。こういうファッションの方向性自体をどうこう言いたいんじゃなく、ディテールのデザインが──最大限好意的に言って──上等そうな子供服といった印象で、普段の彼女のスタイルからかけ離れていた。何より彼女自身が明らかに今の自分の姿に納得いっていない。
「どうしたよそれ」
聞き方も直截的になった。
「このあと母親に会うんだ」
忌々しそうにフリルを引っ張りながら彼女は言った。それで説明はじゅうぶんだった。
かねて聞かされていたいくつかのエピソードから抱いた彼女の母親の印象は、「病的に過干渉、それでいて本当は彼女になんの興味もないんじゃないかと疑うほど絶望的に無理解」といったところだった。
そのワンピースは実家を出る前に母親が彼女に買い与えたもので、彼女に対する「ずっと子供のままでいてほしい」という歪んだ願いがそのまま形を成したような代物だった。とびっきりファンシーな呪物に包まれて、彼女は戦場に向かう兵士の顔だった。
我々はコーヒーを1杯ずつ飲んで、“次の予定”のため先に彼女が店を出ていった。実家に向かう普段と違い過ぎるうしろ姿のシルエットが今も鮮烈に残っている。
その1年後、彼女が死んだ。葬儀の準備を彼女の母親と進めた。
ふたりで遺品を整理している最中、母親がウォークインクローゼットの中で大きな声を上げた。ひらひらした布の塊を愛おしそうに抱きしめた母親がクローゼットから飛び出してくる。涙を流しながら言った。
「あの子が大好きやった服や!」
あのワンピースだった。訂正する気力はなかった。彼女はそれを着せられて棺桶に入り、灰になるまでの時間をその姿で過ごした。参列者たちの記憶に焼きついた彼女の最後の姿は、彼女とまともに関係性を築いてきた人なら誰しもちぐはぐな印象を抱くだろうあのワンピースを着ている。
生者と死者の非対称性
死者についての記憶はいとも簡単に、身勝手に改変される。記憶はエモーションに侵略され、生者たちそれぞれの「こうあってほしかった姿」に塗り替えられる。事実とすり替えられる。これ、あの子が大好きやった服なんです、最後にこれを着せてあげられてよかった──母親が涙ながらにそう語れば本当になる。なった。目の前で。
この文章にしたって、死者について書く上で最大限に尊重するために何重もの細工をしているし、だから十全だと言い切るつもりもない。そういう独善的な覚悟のもと書いている。
男性と女性に、上司と部下に、ネイティブと移民に、シスジェンダーとトランスジェンダーに、そのほかあらゆる属性間に権威勾配がある。二者間にある不均衡の度合いを測る基準として「いかに対等な会話がなされるか」「いかに反論可能であるか」を適用するならば、生者と死者の間におけるそれは最悪の部類だ。なにせ死人に口なし、誤解されたら/捏造されたら/代弁されたらもう訂正できない。合意形成のしようがない一方的な関係性で尊重がなされるべくもない。
また死者同様、返答不可能な相手との間には不均衡が生じ得る。なんとなく美談というか、“ほっこり”的なトピックとしてたびたび取り沙汰されるけれど、「アニメキャラと結婚」というのは──“できる”だろうか? 合意形成のしようがないのに?
仔犬や仔猫の”ほっこり”動画に勝手な吹き替えをつけるのはどうだろう。何かの侵害ではないか、冒涜ではないかとざわつく感度を持っていたい。ある種の暴力は“ほっこり”と行われるものだから。
こんにちようやく取り沙汰されるようになってきたさまざまなマイノリティに関するイシュー同様に、生者と死者の間にも前述のような不均衡があることが広く認知されるまでには、きっと途方もない年月がかかるのだろう。だってその手前で今こんな有様なんだから。それまでは引きつづき、独善的な願望のバイアスで歪んだ推測で勝手に代弁されていく。
上島竜兵にも同様のことがなされた。彼の死について松本人志が語ったことがそうだ。まるで昨今の“行き過ぎたコンプライアンス偏重”の煽りを受けてダチョウ倶楽部の芸が痛みを伴う・人を傷つけるよくない笑いだとしてバッシングを受け、やりづらくなってきていて、それを苦に思ったことが死の一因であるかのような言い草だった。そしてなぜだか最後に「BPOさんどうお考えですかね」と添えてコメントを締めた。
第一に、ダチョウ倶楽部の芸は充分にこんにちのテレビで機能してきた。熱湯風呂にしろ熱々おでんにしろ「どうぞどうぞ」や「くるりんぱ」までの一連の団体芸にしろ、松本が言うようなキャンセルの動きが明示的に見られただろうか。
感染対策のためにやりにくかった時期こそあれ、それは“痛みを伴う”からでも“人を傷つける”からでもない。
もっとも、感染対策の観点からの制限は本来的な「コンプライアンス」の範疇そのものではあるだろう。逆に「コンプラ」という言葉遣いをするような人の思い描く「コンプラ」──これまでおもしろおかしくやってきたことに水を差すけったいな足枷程度の概念──とはまったくの別物なのだけれど。
そして、この松本の“説”が妥当であるかどうか、消費者にとって納得いくかどうかは、この発言がなされたこと自体の妥当性とはまったく関係がない。正解か不正解かの話ではない。「決めつけることができてしまう」事柄について軽率に持論を展開する行為自体に問題がある。あまつさえ、それを弩級の影響力を持つ松本がやってのけた。大いなる力には大いなる責任が伴う。
とはいえ世論はそんなに単純じゃないだろうと思ってツイッターをのぞいてゾッとした。想像を遥かに超えて、松本の煽動に思いきり素直に乗ってBPOへの悪感情を表明するツイートがゴロゴロ流れてきた。
物事の道理や妥当性を、話者の権威性やエモーションが駆逐していく。いつもの風景。権威とは偉いとか大きな組織に属しているとかそういうことばかりじゃない。例えば“ファンがいる”という状況。“あの人がそう言うんなら”という贔屓目が生じ無知と結びつくとき、人は判断能力が鈍る。審美眼が曇る。あのインフルエンサーがおすすめしていたからと自分のトーンに合わないファンデを買ってしまう。
松本が涙を浮かべながらしゃべっていたことも始末が悪かった。人はいくらでも他人の足を踏みながら泣けるのに、他人の泣き顔に弱い。涙が説得材料になってしまう。
しゃべれない相手との対話
件の松本人志の発言に限らず、芸人やテレビマンによるBPOへの憎悪の煽動がしばしば見られるようになってきた。今そういう気運が高まりつつあるように思えて注視している。
たとえば4月27日放送の『水曜日のダウンタウン』(TBS)における「コンプライアンスでがんじがらめにされても従わざるを得ない説」だ。たとえば街ブラロケ中、たい焼き店でのくだりでスタッフが「頭から食べると残酷」「中が見えると残酷」と過剰に「コンプラ」を意識した指示を出し、それに芸人たちが素直に従うかを検証するというものだった。
番組放送後の反応として、スタッフからの過剰な指示に抵抗する姿を見せた芸人に称賛の声が多く上がった。そしてやはり、こういった“不当な”状況を生んでいるBPOや「コンプラ」という概念に対する批難の声も見られた。恐ろしかった。
当たり前のことだが、これらの指示はあくまで企画のためのフェイクで、実際にあったものではない。実際のコンプライアンスとは別物の、「コンプラ」なる仮想敵を茶化すように企画されたフィクションを現実と混同し、まっすぐに憎悪を募らせる。プロパガンダそのものだ。
実在しない、いるとしてもごくわずかな例をことさらに強調して憎悪を煽り、まともな議論をぶち壊し、憎悪を煽る。マイノリティの迫害、戦争、市民の分断、歴史上ことあるごとに人間が繰り返してきたことだ。
自分が身を置いているコミュニティで、カルチャーのシーンで、そういうことがなされていないかを常に意識していたい。熱中すると、ファンでいると、贔屓目になって見失ってしまう。
死者について語るとき、生者がすべきことはまず黙ることなのかもしれない。そもそも成立し得ない「しゃべれない相手との対話」をせざるを得ないとき、それでも最大限相手を尊重するためには、口数をなるべく最小限に留めることくらいしかできないんじゃないだろうか。
口をついて出る言葉を一度飲み込んで、反射に任せず考える。「考える」ことすらも時期尚早な場面もあるだろう。考える材料を、適切な情報をもって、充分黙って考えて、それでようやく多少はマシになるかもしれない。そもそもがどうあってもアンフェアなんだけれど。
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