『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』ギギ、ハサウェイ、ケネスの三角関係から恋愛を学ぶ

2021.7.6
藤津亮太サムネ

文=藤津亮太 編集=アライユキコ 


『ガンダム』の生みの親である富野由悠季監督が1989年に発表した小説の映像化作品『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』(6月11日から全国ロードーショー中)。アニメ評論家・藤津亮太は、ブライト・ノアの息子ハサウェイ・ノアを主人公とするこの作品を、ヒロイン・ギギを中心に「恋愛のモデル」として考察する。

『おもひでぽろぽろ』『ジョゼと虎と魚たち』『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』

フィクションで恋愛を学ぶ。そんなことができるものだろうか。
恋愛はとても個人的な営みだ。だから他人の恋愛の方法を、自分に当てはめるのはかなり難しい。まして特殊な背景を背負った架空の人物ともなれば、さらに「私」からは遠くなる。しかも、その恋愛の様子はしばしば、よりロマンチックであるために“盛られて”いて、架空のキャラクターにしか演じることにしかできない特別なものとして描かれている。そこから恋愛のハウ・トゥを導き出そうとするのは、屏風の虎を呼び出して捕らえようとするようなものだ。

ではフィクションの恋愛から学べることは何もないのか。恋愛は単なる物語の華やぎの要素に過ぎないのか。これはこれでまた極論だ。フィクションの恋愛の中に学ぶことはある。しかし、それはハウ・トゥではない。では何を学ぶことができるのか。

フィクションは、現実の諸要素をモデル化し、端的に把握できるかたちで示すという機能を持っている。恋愛も同様だ。フィクションの中でモデル化して描かれた恋愛は「恋愛とはどのような心の営みなのか」を端的に示している。自分の心を把握するのは難しい。けれどフィクションを通じて、さまざまな「モデル化された恋愛感情」を知っていれば、自分の心の動きを把握することができる。フィクションを通じて我々は、自分の心の変化を客観的に把握できるようになるのである。

個人的にそのことを明確に意識したのは高畑勲監督の『おもひでぽろぽろ』(1991)だった。宮崎駿監督の「演出家が、農家に嫁に行けと言っちゃった」と喝破した評価だけが取り上げられて話題になることも多い同作。だが「自分の長年のわだかまりを、別の視点から解いてくれた」ということが「恋愛の端緒」となるという展開は、「なぜその相手に好意を持つのか」という部分をとても端的に描き出していた。

最近ではタムラコータロー監督の『ジョゼと虎と魚たち』(2020)も、恋愛とはどういうものかを正面から取り扱っていた。依存でも庇護でもない対等な関係としての「恋愛」を描こうとしていた同作。そのための条件として、精神的自立(自分の世界を持つこと)と社会的自立(社会性)が両輪であるということを、登場人物の行動を通して端的に描いていた。 

そして現在公開中の映画『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』もまた、「恋愛のモデル」という観点からとても楽しめる作品となっている。

カミーユ・ビダン、クェス・パラヤ、ギギ・アンダルシアの共通項

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