被害者が非難されるロジック
次に(2)「嫌がっていたとしても最終的にはやってるんだから」。
これを見て、この10代の少女は能動と受動について、一部の大人の考え方をあまりにもトレースしていると感じた。彼女はほかの少年と共に「強要罪」で調べられたが証拠不十分、厳重注意を受けたのみとなっている。
たとえばテキーラの一気飲みが「強要」にあたるかどうかや、AV出演が「強要」にあたるかといった問題では、双方の言い分が食い違う。そして被害者が断れず逃げられない心理状態だったと立証するハードルは高い。加害した側の言い分は、「でもあの子も楽しんでいるように見えましたよ」「無理になんて、絶対していません」「本当に嫌なら断れたはず」「あとから嫌だったと言い出した」といったもの。
このような言い分を究極的に煮詰めたものが「本人最初嫌がっていたとしても、どっちにせよ最終的にはやってるんだから」だろう。
彼女が何かから学んでこのような思考を身につけたのか、それとも「加害した側」がこのような思考傾向になるものなのかはわからない。ただ、これと同じロジックでこれまでも性暴力やハラスメントの被害者がバッシングされてきたことは紛れもない事実だ。
あまり知られていないかもしれないが、2017年の性犯罪刑法改正時、被害当事者らが改正を求めて行ったキャンペーンのスローガンのひとつは「イヤよイヤよは嫌なんです」だった。これは当然ながら「イヤよイヤよも好きのうち」への反撃である。つまりこの言葉は、加害者にとって都合よく使われてきてしまっていた。
「嫌がっていたとしても最終的にはやってるんだから」という少女の言葉に嫌悪感を持つ人は多いだろう。そうであるならば、この言葉と同じ意図のフレーズがおもしろおかしく使われてきた過去があり、それに傷つけられてきた人がいたことにも気づいてほしい。
加害を正当化する“まともな理屈”
次に(3)「小学生にそういうのはダメでしょ?」。
自分たちの行為の責任は決して認めず棚上げするが、相手の言動については「常識」や「マナー」「ルール」あるいは道徳を持ち出して咎める。これもネット上で頻繁に見かける。
ネットリンチの対象となる人は、その言動を絶えず監視され、それが少しでも「落ち度」と捉えられた場合、鬼のように叩かれる。イチゴに練乳をつけたとか、葬儀で黒リボンをつけたことでその都度「炎上」していた辻希美さんのケースがわかりやすい。叩いている側は正義感あるいは加虐心に駆られ、自分たちの行為がネットリンチであることには気づこうとしない。
小学生の前で「死ぬ」なんて言うのはよくない。それ自体は当時中学生だった彼女にとって筋の通った話なのかもしれない。確かにまともな理屈だろう。それを理由に加害行為を行わない限りは。
理由があるからといってイジメていいことにはならない。なぜならイジメる側がイジメられる側の落ち度を見つけるのは簡単なのだから。けれど、ネット上では毎日のように大人たちが、「正当な理由があれば集団でリンチしてもいい」を繰り返している。義憤に駆られ、イジメ加害者の顔を晒し、突撃していく。
「子供は社会を映す鏡」という言葉がある。ネット上で日々繰り返される荒んだ光景と、旭川の地で行われた悲惨なイジメが無関係であるようにはとても思えない。
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