芸能人による性暴力報道に欠けた視点。セカンドレイプを繰り返すマスコミの罪(小川たまか)

2021.2.10

文=小川たまか 編集=田島太陽


お笑い芸人やタレントによる性犯罪は、衝撃的なゴシップとしてネットニュースやワイドショーで大きく扱われ、繰り返し報じられる。二次被害という視点が欠如していることが多いそれらの報道には、大きな問題が潜んでいる。そして、いつまでも改善する兆しがない。

性暴力についての取材を重ねる小川たまかが、「性被害の暗数を増やすことに加担する、マスコミの罪」を考える。


通常の性犯罪の記事は「読まれない」

今回書きたいのは性暴力の報道について……なのですが、その前にまず記事のPVについてお話をしたい。

私はここ数年性暴力の取材に注力していて、2017年ごろからは特に性犯罪の刑法に関して記事を書くことが多い。性犯罪のニュースはそれなりにPVを取ると思っている人も多いかもしれない。その傾向はあるけれど、一方で、刑法についての記事はまあ読まれない。性被害当事者が、支援の充実や刑法改正を訴えるシンポジウムについての記事、これもまず読まれない。

注目される性犯罪の裁判記事は読まれることもある。ただ、多くの読者の興味は有罪か無罪か、懲役何年かの情報なので、速報が最も読まれる。解説記事はSNSで拡散されることはあっても記事の流入はそこまででもない。

体感として、注目される性犯罪裁判の判決記事>>高い壁>>性犯罪に関する刑法や支援の記事、という感じ。

しかし。しかしである。性犯罪に有名人が絡むと話が変わる。そして、その有名人がジャーナリストや政治家ではなく、芸能人である場合、うわなんだこれとびっくりするほど読まれる。

↓私の体感

「加害者が芸能人と報道された性暴力(あるいは性犯罪)事件」

>>>>>>>>超えられない壁>>>>>>>

「加害者がジャーナリストや政治家」

>>>あんまり超えられない壁>>>

「その他の注目される性犯罪裁判の判決記事

>>高い壁>>

性犯罪に関する刑法や支援の記事

個人的には現在の被害者支援に不足があることや、被害当事者の状況を知ってほしい気持ちがあるので残念だとは思うけれど、人の関心はこういうものだから仕方ない。私だって自分の詳しくないジャンルについてはこのような反応になるし、政治経済国際問題よりもエンタメニュースが多く消費される傾向は今の日本でどうしてもある。

で、私が今回お伝えしたいのは、「読者はもっと不遇な状況にある人や社会問題に関心を持ってください!」ということではない。

芸能人が絡んだ性犯罪事件だけを嬉々として伝えたがるメディア、どうなん……という話をしたいのです。

芸能人の恋愛ゴシップのノリで

私は数年前から、「性暴力と報道対話の会」という小さな集まりに参加している。これは、性被害当事者とマスコミが一緒に話し合う場だ。

報道による取材や、その報じられ方で当事者が傷つくことがこれまで多くあった。一方で、当事者たちが「報じてほしい」と願っていることもある。何に配慮し、何を伝えるべきかを両者が一緒に考える目的のもとに集まっている。少人数ではあるが、新聞社やテレビ局、ネットメディアの記者が参加している。

「性暴力と報道対話の会」作成の「性暴力被害取材のためのガイドブック」

有意義だと思う一方で、常々感じることがある。

このような集まりに参加する記者は、そもそもの姿勢に慎重さがある。もっとも、慎重だからといって取材対象を傷つけてしまうことがないかといったらそんなわけではないから学びつづけるのだけれど、性被害についての最低限の知識や心構えはある。

けれどひとたび芸能人が絡んだ性暴力事件が起こったとき、勢いよく記事を書くのは、普段、性暴力のシンポジウムや勉強会に顔を出している記者たちではない。

芸能関係の記者にとっては、芸能人の記事なのだから自分たちのフィールドということになるのだろう。その点においてのプロであることはわかるが、そこには「報道による二次加害に気をつけなければいけない」という視点が欠けていることがある。

最近の具体例を挙げる。


その妄想記事になんの意味があるのか

モデルで社会活動家「ラブリ」、知人女性へのわいせつ容疑・書類送検 「私はこう思う」(徳光正行/2021年1月25日/デイリー新潮)

https://www.dailyshincho.jp/article/2021/01250600/

記事を書いた徳光は、導入部分で「記事の通りならば告発女性はさぞかし恐ろしかったことでしょう」と書いてはいるが、そのあとでラブリのインスタグラムの写真やそこに書かれた文章を複数紹介し、「“恋”の存在を十分に感じさせます」「“恋”の終わりのようなものが語られ」「うまく行っていた関係が壊れていくさま」と書く。

さらに、「私の周りの方々に記事をご覧いただいた上でどう思いどう感じたかということを伺ってみました」と複数のコメントを紹介する。

ラブリに対して手厳しいコメントが多かったことを挙げるが、締め括りには「(インスタの文章は)被害女性に向けてのメッセージだったんじゃないかと思ってしまいました」と語る女性の言葉を引用。

つまり、ラブリと被害女性の間には一時期親密な関係があり、それがこじれた結果の告発ではないかと読者に想像させたい書きぶりとなっている。このご時世、はっきりとそう書けば非難されるとわかっているからか、女性の知人の口を借りるところが呆れる。

私は被害女性のA子さんに直接取材し、記事を書いている。

ラブリさんを告発したA子さんの訴え 「女性同士による性被害」の盲点と深刻さ(小川たまか/2021年1月21日/Yahoo!ニュース個人)

https://news.yahoo.co.jp/byline/ogawatamaka/20210121-00218577/

この記事で書いた以上のことをここでは書かないが、ラブリが強制わいせつで書類送検されていたことを最初に報じた『週刊文春』を読むだけでも、A子さんが「男の子が好きなので、女の子は無理なんです、ごめんなさい」と断っており、“恋”や“うまく行っていた関係”があったわけがないことはわかるはずだ。

A子さんが被害によって「死にたい」と追い詰められていることも記事には書いてある。文春の記者も、取材にあたってできる限りの配慮を行っただろう。

それなのに、なぜわざわざ、徳光がこんな憶測だけでコラムを書く必要があるのか。このような憶測を向けられ、記事にされることが当事者に与える影響を考えているのか。多少は編集をしたのかもしれないが、これをわざわざ掲載する新潮社もどうかしている。

念のために書くが、「告発された人」を糾弾せよと言いたいのではない。わざわざ言及する必要もないのに、妄想でしかない憶測をぶつけるのをやめろと言いたい。目立った話題に引っかければPV取れるからですかと聞きたくなる。被害者への配慮以前の問題だ。

マスコミは過去の罪をなかったことにしている


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小川たまか

(おがわ・たまか)1980年、東京都品川区生まれ。文系大学院卒業後→フリーライター(2年)→編集プロダクション取締役(10年)→再びフリーライター(←イマココ)。2015年ごろから性暴力、被害者支援の取材に注力。著書に『「ほとんどない」ことにされている側から見た社会の話を。』(タバブックス)。自称フ..