『機動警察パトレイバー2』が示した「平和という言葉がウソつきたちの正義」にならないために必要なこと

2021.3.2

「冷戦後の戦争」を扱う唯一のアニメ『パトレイバー2』

──と、ここまでは『パトレイバー2』のアニメ史的な立ち位置についての、教科書的な解説だ。そして、もちろん週末からつらつらと考えていたのは、これとはまた別のことだった。

僕は最近『アニメと戦争』という書籍を上梓した。同書は戦中から21世紀まで、架空実在を問わず戦争を扱った国産アニメについて、そのアプローチを検証した本だが、その中でも『パトレイバー2』を取り上げている。というのも『パトレイバー2』は、「冷戦後の戦争」というものを主題として正面から扱った、唯一といっていいアニメ作品なのだ。

『パトレイバー2』は1999年、東南アジアの某国のPKO(国連平和維持活動)に参加した陸上自衛隊のレイバー部隊が攻撃を受けるも、本部から発砲許可が下りなかったため、全滅するというシーンから始まる。ここの冒頭は、1991年の湾岸戦争を経て1992年にPKO協力法が成立し、同年9月から自衛隊がPKOの一環としてカンボジアへ派遣されることになったという現実の政治状況をダイレクトに反映しており、とてもアクチュアルだ。

部隊の隊長だった柘植行人は帰国後失踪し、3年後にある計画を始める。そして2002年2月26日早朝、柘植グループは行動を開始する。3機の戦闘ヘリは、都内の橋と通信施設という“コミュニケーションの回路”を破壊する。さらに無人操縦の黄色い飛行船は、妨害電波を発して、都内に展開中の自衛隊を孤立させる。これは首謀者である柘植が考えた「東京を舞台に“戦争状況”を演出する」という作戦の最終局面だったのだ。

世界の随所に戦争は存在する。そこからは誰も無縁でいられない。それは冷戦構造の庇護の中で平和と繁栄を謳歌していた日本人には見えていなかった現実だ。その現実に直面した柘植は、誰も死なない「戦争状況」を演出することで、東京という町に「戦争」というものが存在する現実を思い知らせようとしたのだ。柘植は「戦争というものと無縁ではいられない」という現実主義に立脚し、そこに目を背けた「平和」という理想主義を撃つのである。冷戦後の「戦争」や「平和」といった価値観が揺れる瞬間に、そういうかたちで日本の戦後を論じたのが、『パトレイバー2』の尖った部分だというふうに広く受け止められている。

なお、ここでいう現実主義は、国際政治のそれではなく、「現実を最重視する態度。理想を追うことなく、現実の事態に即して事を処理しようとする立場。リアリズム」(『デジタル大辞泉』)という意味合いで使っている。

『アニメと戦争』藤津亮太/日本評論社
『アニメと戦争』藤津亮太/日本評論社

二・二六事件の青年将校たちの姿にも重なる

しかし、本当に柘植は「現実主義」なのだろうか。というのも、柘植はその作戦で「戦争状況」、つまり「概念」しか示さないのだ。柘植を追う陸幕調査部別室の荒川は日本の平和を「平和を得るために正当な代価をよその国の戦争で支払っている」と評するが、もし本当に現実主義に徹するなら、朝鮮戦争から湾岸戦争に至るまで、日本がいかに「正当な代価を払ってこなかったか」が論じられるべきだし、「今、正当な代価を払うということがどういうことか」が具体的に語られるべきなのだ。それは平和学研究者・伊勢崎賢治のいうような、自衛隊のPKF(国際連合平和維持軍)参加におけるある種の欺瞞を撃つようなかたちになるかもしれない。

もちろん、これらは現実の政治の問題であって、それらが入り込んできたら映画が論文になってしまい、映画ではなくなってしまう。つまり、映画が映画として成立するために、柘植は「戦争という概念」だけを提示するに留まった、というふうに考えることができる。そして「具体性を欠いた現実主義者」となった柘植は、つまり理想主義者に見えるのだ。「理想主義者」がその理想に基づいて実力を行使する、というふうに考えれば、柘植の姿は、二・二六事件の青年将校たちの姿にも重なって見えてくる。

作中で指摘される「戦後日本の平和」という欺瞞。これについて、警視庁特車二課の後藤隊長は「そんなきな臭い平和でも、それを守るのが俺たちの仕事さ。不正義の平和だろうと、正義の戦争よりよほどマシだ」と答える。この「正義の戦争より不正義の平和」というフレーズは井伏鱒二の『黒い雨』からの引用だ。この眼の前の人間の生命や財産の安全が重要と考えるこちらのほうが、柘植よりも遥かに「現実を最重視する態度=現実主義」的である。

『黒い雨』井伏鱒二/新潮社
『黒い雨』井伏鱒二/新潮社

つまり『パトレイバー2』は、「柘植=現実主義」と「戦後日本=理想主義」という対立構図と読むよりも、「戦後日本=理想主義」という中心に対し、「その理想の欺瞞を撃つもうひとつの理想主義=柘植」と「不正義の平和のほうがマシという現実主義=後藤」という価値観が配置されている映画なのだ。

後藤の「不正義の平和のほうがマシ」という言葉に対し、荒川は次のように返す。

「あんたが正義の戦争を嫌うのはよくわかるよ。かつてそれを口にした連中にロクな奴はいなかったし、その口車に乗ってひどい目に遭った人間のリストで歴史の図書館はいっぱいだからな。だが、あんたは知ってるはずだ。正義の戦争と不正義の平和の差は、そう明瞭なものじゃない。平和という言葉がウソつきたちの正義になってから、俺たちは俺たちの平和を信じることができずにいるんだ。(略)単に戦争ではないというだけの消極的平和は、いずれ実体としての戦争によって埋め合わされる……そう思ったことはないか?」

荒川がここで指摘しているのは、要は「お題目としての平和」を崇めるような心象は、何かの拍子に簡単に「お題目としての戦争」を崇めるようになってもおかしくない、ということだ。そして「平和という言葉がウソつきたちの正義になる」というのは、「理想」がほころびを見せているにもかかわらず「理想」として崇めつづける姿勢は、「欺瞞=ウソ」以外の何物でもないという指摘だ。

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