「子どもを産まなかったほうが問題」は失言ではない。現政権の本音だ(清田隆之)

2020.1.21

「個人として」と「人として」は何が違うのか

また、日本国憲法の第13条では「すべて国民は、個人として尊重される」と謳われているが、改憲草案では「すべて国民は、人として尊重される」となっており、「個」のひと文字が削除されている。個人とは「individual」の訳語で、「divide(分ける)」に否定の接頭辞「in」がついたもの、すなわち「それ以上分けられない社会の最小単位」を表す言葉だ。私たちは個人として生まれながらにさまざまな権利(=基本的人権)を有し、誰もこれを侵してはならないというのが憲法の基本理念なのだが、ここから「個」がはぎ取られているのは、決して些細なことではなく、むしろとてつもなく大きな変化に感じる。

改憲草案を読むに、自民党は個人ではなく家族を最小単位とする社会の構築を夢想している。男性を家長とする小さなピラミッドの連なりが、天皇を元首(改憲草案第1条より)とする日本国を構成する……。そのためには国が介入できない個人でいられては困るのかもしれない。「国家」という言葉が表すように、彼らにとって国はひとつの“家族”なのだ。

その家族には上意下達の権力構造があり、男女の役割分担があり、次世代の再生産というノルマが与えられる。人権とは義務を果たした者にのみ与えられるもので、家族の問題は基本、家族の中で解決すべきである──。こういう世界を作りたがっているのが政権与党の面々だとすると、ワーストランキングにノミネートされた発言の数々が妙にリアリティを帯びてはこないだろうか? あれらは“失言”なんかじゃなくて、目指している世界観に則った“本音”なのではないだろうか。

“美しい国”のルールに絡め取られていく違和感

正月の家族団らんは確かに楽しい時間だった。4人の孫に囲まれ、うちの両親も幸せそうだった。母や妹はよろこんで台所に立ち、「あんたたちは座ってビールでも飲んでて」と言っていた。でもなぜ、料理やケア役割が当たり前のように“女の仕事”となっているのだろうか? なぜ、男たちはそのアンバランスな状況の中でくつろげてしまえるのだろうか?

そこに根づいている感覚は、あの政治家たちの問題発言と確実に地続きだ。男女に固定化した役割を与え、能力や成果でその価値をはかり、個人の願望や欲求をわがままと見なして尊重せず、国益に貢献することを是とする“美しい国”のルール──。そういうものにじわじわ絡め取られていくような違和感こそ、あのとき感じた居心地の悪さの正体だったのかもしれない。

私は「個人」をなくしたい現政権が作ろうとしている世界に恐怖と嫌悪感を抱いている。2020年は“全員団結”が求められる東京五輪も開催される。改憲の是非を問う国民投票が実施されるのも遠い未来の話ではないかもしれないのだ。

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清田隆之

(きよた・たかゆき)1980年東京都生まれ。文筆業、恋バナ収集ユニット「桃山商事」代表。早稲田大学第一文学部卒業。これまで1200人以上の恋バナを聞き集め、「恋愛とジェンダー」をテーマにコラムやラジオなどで発信している。 『cakes』『すばる』『現代思想』など幅広いメディアに寄稿するほか、朝日新聞..

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