『キングオブコント2020』ニッポンの社長「ケンタウロス」は日本の閉塞感を突破する大傑作だ


笑い泣きしてしまうのは、なぜなんだ

「もうええって、もう。なんで俺だけこんなやねん」
1分近くひとりでしゃべるケンタウロス。
「おれはずうっと独りなんやろうなー」と叫んで肩を落とした瞬間、ミノタウロスが反対側から登場する。

『セントールの悩み』を思い出した。2017年7月にアニメ化された作品。原作は村山慶のマンガ(徳間書店)だ。
主人公は、ケンタウロス族の女子高生。竜人や角人、翼人などさまざまな形態の人類がいるが、形態は違えど言葉は通じ合う。それどころか差別的な行動をすると思想強制所行きになる。学校の先生が「平等は時に、人権や生命より尊い」と教える世界なのである。

我々は似ているようで差異がある。平等で、差別のない世界を理想とする我々は、その差異を表明することに過度に慎重になる。表現してはいけないことのように扱ってしまう。『セントールの悩み』は、我々の間にある差異を形態の違いとして戯画化した。違う形態の者同士が仲よく平等に暮らしている状況をユートピアであると同時にディストピアとして描いている。とても現代的だ。

『セントールの悩み』<1巻>Blu-ray/スマイラルアニメーション
『セントールの悩み』<1巻>Blu-ray/スマイラルアニメーション

「ニッポンの社長」がコントで描いたのは、もっと絶望的な閉塞感だ。ケンタウロスとミノタウロスのふたりしか出てこない。
4分20秒ほどのコントなので、詳細な世界設定も説明されない。それどころか、ミノタウロスがひとりで舞台に立っている最初の1分ぐらいしか「セリフ」と呼べるパートがない。だが、ケンタウロスとミノタウロスという異形のキャラクターに感情移入し、笑い泣きしてしまうのは、何故なんだろう。

いや、全員が全員、感情移入できるとは言わない。ネット上では、賛否両論だ。わけがわからない、おもしろさがわからないという意見もある。その一方で、めっちゃ笑った、最高だった、心地よかったという賛辞も多い。

ドラマのようなシチュエーションでありながら、そしてお互いがお互いを補い合えることが形態だけで一目瞭然でありながら、うまく通じ合えない。コントの中で描かれた姿が、現実の我々を照射する。目をそむけても我々は一人ひとり違う。補い合うことができればいいのだが、そのためにコミュニケートすることはとても困難だ。

言葉ではなんの説明もないのに、わかる

「ニッポンの社長」には、コミュニケーションが成立しない状況を描いたコントが多い。典型的なヤクザなのにパンだけに妙なこだわりを持つ兄貴を描いたコント、カウンターしかない飲み屋なのに大型店みたいなマニュアル接客をしてしまう店のコントなど、現実に起こりそうなギリギリのラインでありながら違和感のあるコミュニケーションのズレを描くコント群がある。

ニッポンの社長のコント「ヤクザ」

そして、もうひとつ、「ゴルフセンター」や「シャチと少年」のように辻さんがまったくしゃべらないパターンのコントがあり、そちらはもう最初から最後までコミュニケーション不全の状況を描いている。

ニッポンの社長のコント「ゴルフセンター」

『キングオブコント』にかけたケンタウロスとミノタウロスのコントは、後者のパターンだ。辻さんはセリフらしいセリフをまったくしゃべらない。ふたりが明確な会話を交わすことはないのだ。

ケンタウロスが財布を拾って、ミノタウロスに渡す。ふたりは、見つめ合う。
HYの「AM11:00」という曲が流れ始める。「ケンタウロスとミノタウロスが見つめ合う」という観たことのない画で、ふたりはまったく動かない(時間が止まったという演出だ!)。およそ30秒のイントロの間、動かない。言葉ではなんの説明もないのに、ふたりが恋に落ちたことが伝わってくる。

すごい時間。ひとつでも笑いの数がたくさん欲しいコンテストの場で、この間!
これだけでもオーソドックスなコントではない何か異様なモノを見てしまった感動があった。ここから先も「ニッポンの社長」はまったくブレない。

歌うのだ。ただ歌うのだ。

学生服のケンタウロスが歌う。まじめに歌う。会場からは拍手と笑い。どういう笑いだ?
恋愛ドラマのクライマックスで歌が流れるシーンのパロディだけど、登場キャラクターであるケンタウロスおまえが歌うなや!というボケなのだろうが、ツッコミも何もなく歌いつづけるそのシーンは、今強引に解説したボケに留まらず、何か不思議なモノを体験して理解を超えたことで笑っているような感覚になる。

ケンタウロスとミノタウロスは「おもしろい」ことをやらない。
女性パートの歌でマイクを持ったミノタウロスの唸り声ゴオオオオオオも、ミノタウロスであれば当然のことで「おもしろい」ことをやったわけではない。
さらに絶妙なのが「恋に落ちたふたりの種の違いによるコミュニケーション不全」という悲劇が判明した直後に、歌は男性のラップパートになるのだ(選曲のすごさ!)。

伝わらない気持ちを爆発させるタイミングでのラップ。ラップが持つ怒りや感情の爆発が、ほとんど説明されない奇想天外な展開とばっちりシンクロすることで、また笑いが生まれる。
言葉による説明がないのに、そこにいるふたりの感情が伝わってくる。
その後の予想を超えるクライマックスと、最後の叫びでコントが終わる。これはなんだ、嵐のようなものを観てしまった衝撃でしばらく茫然としていた。

「ニッポンの閉塞感を吹き飛ばすヒントがここにある」みたいな話を真剣に展開できるぐらいの想像の余地があるコントだった。

スティーブン・スピルバーグが1憶ドルかけてリメイクした映画版を見て、「原作のコントのほうがよかったねー」って言い合いたい。

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