九龍ジョー AI美空ひばりに感じた違和感を“襲名”という仕組みから考える

2020.1.16

AI美空ひばりに感じた違和感

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今年5月に控えた海老蔵の團十郎白猿襲名についても、当然番組では取り上げられていた。同時に、勸玄は新之助となる。

襲名とは不思議な仕組みだ。誰かの名前をそのまま自分のものとする。渡辺保によれば、これは天皇制の原理を応用したものであるという(『カブキ・ハンドブック』)。折口信夫『大嘗祭の本義』にこのような記述がある。

「昔は、天子様の御身体は、魂の容れ物である、と考へられて居た。(略)処の魂は、終始一貫して不変である。故に譬ひ、肉体は変つても、此魂が這入ると、全く同一な天子様となる」

https://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/18411_27474.html

天皇制における「万世一系」とは血筋のことだと思われがちだが、しかしそうではないと。魂の容れ物としての身体があればよい。また、その意味において、身体は違えど、歴代の天皇はみな同一人物となる。

芸能における襲名もまた、理念としては同じだろう。しかし、「魂の不変」などというものをにわかに信じるわけにはいかない。それは代々の研鑽された身体によって芸が受け継がれることで、逆説的に証明されるということは言うまでもない。

紅白のAI美空ひばりに私が感じた違和感も、これにつきる。

きっと批判も織り込み済みだろう。しかし、美空ひばりの名を冠する新曲であれば、その魂を受け継ぐための身体が必要だと言いたい。ディープラーニングを受肉する身体が。たとえば、2代目美空ひばり。AI以上に炎上したかもしれないな。もちろん美空ひばりの名は1代限りのものであるべきだと私も考える。それでも新たに歌わせたいのであれば、誰かが2代目となる覚悟が必要だ。

亡くなったあの人に会いたい、という気持ちは誰にでもある。死はいつだって不条理だからだ。しかし、いないからこそつながっていくものがある。

マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)でジェームズ・ディーン(または他の死んだ俳優)を決して見ない理由」という「yahoo! entertainment」の記事によれば、マーベル・スタジオのプロダクション担当者は、亡くなった俳優をデジタル技術で蘇らせる手法について否定的であるそうだ。直接はジェームズ・ディーンが新作映画にキャスティングされている件への応答であるが、その理由には、心情的なものにとどまらない合理的な裏付けがある。MCUでは、生身の俳優たちと共演するにあたって、CGの根っこに現実の俳優によるライブパフォーマンス(その多くはモーションキャプチャだろう)があったほうがうまくいったというのだ。

しかし、その壁もいずれ技術が乗り越えていく可能性がある。また、生身の身体とテクノロジーの垣根を越えていく芸能のあり方への関心も、私のなかにはある。むしろ伝統芸能にはデジタル表現と相性がいい側面が多分にあるからだ。AI美空ひばりのような表現を見るたびに、心はざわつく。

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ライター、編集者ほか。編集を手がけた書籍・雑誌・メディア多数。著書に『伝統芸能の革命児たち』(文藝春秋)、『メモリースティック』(DU BOOKS)、『遊びつかれた朝に』(磯部涼と共著、ele-king books)など。『Didion』編集発行人。Errand Press相談役。

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