いいぞ! よく気づいたぞ
語りといえば、長年小説を読んできたわたしが「こんな一人称語りは初めて」と瞠目した表現がこの小説の中に二度出てきます。〈私〉の鍛えられた体に少し興奮した様子を見せた灯に大胸筋を触らせてやったときの〈灯は嬉しそうに笑い、それを見た私も嬉しかったか?〉。せっかく北海道まで旅行に来たのに、性欲が昂進した灯のためにホテルでセックスをしつづけたというエピソード中の〈映画は前日のうちに借りてあったから、一応テレビに映しはした。灯が見たいと言った、ゾンビが人を襲う映画だった。でも灯は私の体を触ることをやめず、ろくに画面を見ていなかった。だから私は、ゾンビの映画であるにもかかわらず、ゾンビが出ないうちに灯を押し倒した。これは相手の同意がない場合、罪にあたる行為だが、灯は私の下で幸福そうに笑っていた。それを見た私も幸福だったか?〉。自分の感情なのに、己の中の誰かに確認せずにはいられない。自我に対する不信感をこのような語り方でほのめかす小説に、不勉強ながらわたしは初めて出合いました。
この「だったか?」語りが示す内面のからっぽ感を、しかし、小説中に一度だけ、〈私〉が自覚できるかもしれないチャンスが訪れるんです。やはり北海道旅行の最中の出来事なのですが、灯のために何か温かい飲み物を買ってやろうとしたのに、その自販機に温かい飲み物がなかったというシークエンス。
私は灯に飲み物を買ってやれなかったことを、ひどく残念に思った。すると、突然涙があふれ、止まらなくなった。
『破局』遠野遥/河出書房新社
なにやら、悲しくて仕方がなかった。しかし、彼女に飲み物を買ってやれなかったくらいで、成人した男が泣き出すのはおかしい。私は自動販売機の前でわけもわからず涙を流し続け、やがてひとつの仮説に辿りついた。それはもしかしたら私が、いつからなのかは見当もつかないけれど、ずっと前から悲しかったのではないかという仮説だ。
いいぞ! よく気づいたぞ。そうだぞ。ずっと彼女と呼べる存在がいて、親に私立のいい大学に通わせてもらって、鍛え抜かれた健康な肉体を有しているという恵まれた表面をまとっただけの内面からっぽ人間なんだぞ、お前は。どうしてそんな自分になってしまったのか、涙をぬぐわず思い返してみろ!
心の中で応援したわたくしだったのではありますが、〈私〉はそうした恵まれた条件を数え上げた末に〈悲しむ理由がなかった。悲しむ理由がないということはつまり、悲しくなどないということだ〉と結論づけ、〈自動販売機から離れ、けろっとして灯の待つバス停に戻った。悲しくないことがはっきりしたので、むしろ涙を流す前よりも晴れやかな気分だった〉ですませてしまうんです。
そんな回心しなかった〈私〉にどんな“破局”が訪れるかは、これから読む人のために明かしませんが、新聞で10行くらいですまされてしまうであろう、つまり起きたことだけなら珍しくはない三面記事的事件における〈私〉の内面の起承転結を追っていくと、拙文の初めのほうで触れたように、〈私〉の「ヘン」は突飛な「ヘン」なんかではなく、遠野氏が会見で述べた「人によってはけっこう、気持ち悪いとか、共感できないとか、怖いとかおっしゃるんですけど、そんなふうに書いたんじゃないのにな」が示すとおり、まっとうに見えるペルソナで隠されているだけで、わりあい多くの人の内面に潜む類いの「ヘン」なのではないかという思いに至るんです。
そうしてまた最初から読み返すと、もしかすると現代の若い世代の多くが抱える空虚さを体現する主人公のありようとラストの“破局”にリアリティを与えるために、作者がいかに細部のエピソードに気を配っているかがわかるはず。芥川賞受賞は当然。こういう作品に授賞できる現在の選考委員に拍手を送ります。
最後に、『破局』が好き過ぎてデビュー作の『改良』も読んだわたしが言えるのは、「ああ、遠野さんは本当に男女共用のトイレで便座を上げたまま出て行く男が嫌いなのだなあ」ということ(両作を読めばわかる!)。あと、『改良』『破局』と続けて暴力をオチにしているので、3作目は別の展開を見せてほしいなあ、とも。遠野氏には女性ファッション誌からモデルとしての登場依頼もあると、聞いています(引き受けたかどうかは不明)。西村賢太氏や羽田圭介氏がテレビに呼ばれたのとはまた違う方面のオファーが殺到しそうな、文芸界のニュースターの誕生を言祝ぎたい、出版業界のガヤ芸人トヨザキなのでした。
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