ハイスペ男子の奇妙な自分語りが、男性性のメカニズムを浮き彫りにする芥川賞受賞『破局』(清田隆之)

2020.8.7

世の中の“ちゃんと”をディープラーニング

引っかかりを感じるポイントはほかにもある。陽介はやたらと「正しさ」や「マナー」といったものにこだわる傾向にあるのだが、それらが妙なアクセントになっている。まだ未成年の灯にお酒を飲ませるのは「法律で禁止されて」いるからよくないことだと考え、「女性には優しくしろ」という亡き父の教えを忠実に守っている。彼氏である以上、恋人の誕生日には何かをしてあげたいと思うのが当然だと考え、恋人が求めてくる限りセックスには完璧に応じなくてはならないと思っている。セックス好きを自認しているが、性的同意を重んじており、強引なことはけっしてしない。

相手から笑顔を期待されているとわかれば「笑うのが礼儀」だと考えているし、ラグビー部のコーチとして非情なまでに部員たちに苦しい練習を課すのも、「チームを創部以来初の準決勝進出」に導くことが自分の役割なのだから当然という考えでやっている。

このように、陽介は極めて「ちゃんとした人」だ。しかし、その“ちゃんと”はどこか人工知能的というか、世の中の“ちゃんと”をディープラーニングのように学習した結果として導き出されたもの……とでも言うべき妙な手触りが宿っている。

確かに陽介は、灯と濃厚なセックスをしたり、部員たちに熱心な指導を行ったりしている。相手にも「前向きな態度」や「厳し過ぎるコーチ」と映っている。しかし、その内面には感情や情緒といったものが奇妙なほど希薄で、それが不穏な空気感につながっている。

対人関係や社会活動など、表面に立ち現れる発言や行動は極めて常識的で、特におかしなところは見当たらない。しかし、思考や感情といった内面をのぞいてみると、途端に「役割」や「規範」といったプロトコルに則って行動しているだけの無機質な男性に見えてくる──。これが私の抱いた陽介の奇妙さの正体であり、この小説の魅力ではないかと考えている(それが最後、“破局”を迎えるところがさらなるポイントなのだが、そこはぜひ本作で確かめてみてほしい)。

女性に対して常に性的なまなざしを向けている

しかし、これが奇妙な男の生態を描いた小説なのかというと、けっしてそうではない。最初は私もそう感じていたのだが、徐々にその印象は変化していった。

本作では展開されている場面とまったく脈絡なく、あるいは流れている会話の文脈と一切関係なく、陽介の性的な妄想や観察が唐突にカットインしてくる箇所が多々ある。たとえば陽介は物語の序盤、友人が出演するお笑いサークルのライブを観に行くのだが、開演間際に入場したため席を選ぶ余地がなく、両脇を女性に挟まれた席に座ることになる。そしてそこでこのようなことを思う。

右の女はショートパンツを穿き、脚を露出させていた。席と席が近いことにかこつけて、私はこの女にわざと脚をぶつけようとした。が、自分が公務員試験を受けようとしていることを思ってやめた。公務員を志す人間が、そのような卑劣な行為に及ぶべきではなかった。そのかわりに、椅子の位置を念入りに確かめるふりをしながら彼女の脚を盗み見た。教室は既に、舞台の上を除いて照明が落とされていた。それでも、彼女の脚がとても白いことがわかった。(中略)私は昔から、座った女の餅のように伸びたふとももを見るのが好きだった。

『破局』より

こういった行為は「視姦」や「性的消費」と呼ばれるもので、女性をモノのように見なす女性蔑視(ミソジニー)的な感覚から生まれるものだ。「公務員を志す人間が、そのような卑劣な行為に及ぶべきではなかった」などともっともらしいことを述べているが、言ってしまえば痴漢のような思考回路である。しかもこれは一例に過ぎず、お笑いのライブを観ているときも演者の女性に性的なまなざしを向けているし、公務員として働く先輩と飲みながら仕事の話を聞いているときも、目では女性店員のボディラインを細かく観察している。

全体的に無機質で情緒に乏しい印象の陽介だが、強い感情をはっきりと読み取れる部分がふたつだけある。それは「性的興奮」と「怒り」だ。ここだけはコントロールが効かず、内側から湧き起こる衝動によって突き動かされているような感じがある。こういった姿を見るにつけ、「陽介はむしろ、いわゆる“マジョリティ男性”的な特徴を先鋭化させたようなキャラクターなのではないか……」と思うようになっていった。

マジョリティ男性による高解像度な自分語り

私はこれまで、恋バナ収集ユニット「桃山商事」の一員として1200人以上の恋愛話に耳を傾けてきた。女性からの恋愛相談で見聞きする「男に対する疑問や不満」にまつわるエピソードの数々や、男性の身の上話や自分自身の体験などをもとに「男性性」の問題について考える機会が増え、『よかれと思ってやったのに──男たちの「失敗学」入門』(晶文社)や『さよなら、俺たち』(スタンド・ブックス)という本も出版した。

「役割」や「規範」といったプロトコルに則って行動する、感情や情緒が見えづらい、ミソジニー的感覚が息づく性的消費、手触りのある感情が性的興奮と怒りくらいしかない──。こういった陽介の姿は、私がこれまでの経験から感じてきた「男性性」の特徴とオーバーラップする。

通常、男性たちは自らの内面をなかなか開示してくれない。ましてや女性の身体に性的なまなざしを向けていることなど、「キモい」と思われるリスクがある以上、極めて限定的な場面(ホモソーシャルな空間など)以外では絶対に口にしないだろう。

陽介はそういった部分までてらいなく言語化してしまう。男性たちがけっして表に出そうとしない感情や思考まで、遠慮なく、思ったまま思ったタイミングで言葉にしてしまう点こそ、陽介の最も奇妙なところかもしれない。こんなふうにマジョリティ男性の内面をのぞける機会はそうそうない。

男性が思ったことや感じたことを言葉にしないのは、言語化という行為に慣れていないというのもあるだろうが、その根底に「恐怖」があることが大きいのではないか。規範やマナーは外部に根拠を求めることができるが、感情や思考は自分自身が根拠になる。価値判断を下されてしまうし、責任も発生する。おそらくそれが恐いのだ。

だから場の空気や相手の顔色といったものを窺い、そこに漂う“正解”に自分の言葉を無意識でチューニングしてしまう。その言葉は感情や身体感覚といったものとは微妙にズレたものになっているだろうし、相手からしてもリアリティのある言葉に感じられない。男性たちの“よくわからなさ”の背景にはこういったメカニズムが働いているのではないか。私にとって『破局』は、世にも珍しい「マジョリティ男性による高解像度な自分語り」であるとともに、男性性に対する理解が深まるような、同時に“よくわからなさ”が増していくような、そんな奇妙な読書体験だった。

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清田隆之

(きよた・たかゆき)1980年東京都生まれ。文筆業、恋バナ収集ユニット「桃山商事」代表。早稲田大学第一文学部卒業。これまで1200人以上の恋バナを聞き集め、「恋愛とジェンダー」をテーマにコラムやラジオなどで発信している。 『cakes』『すばる』『現代思想』など幅広いメディアに寄稿するほか、朝日新聞..

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