和牛 ふたりで歩む 伝説の漫才師への道

2020.1.25

文=奈々村久生 撮影=森弘克彦


2016年、2017年、2018年。史上初の3年連続M-1準優勝の記録を持つお笑いコンビ、和牛。2019年のM-1決勝戦では敗者復活戦で蘇るも、最終ラウンドに進みふたつ目のネタを披露することは叶わず、結果は4位。そしてその後ふたりは、M-1からの“卒業”を宣言した。

「賞レースのために生きてるわけではない」。そう語るふたりが漫才で目指す夢とは一体どんなものなのか。2018年のインタビューから、ふたりがお笑いをどう捉えてきたかを振り返る。

※本記事は、2018年2月24日に発売された『クイック・ジャパン』本誌vol.136掲載のインタビューを転載したものです。


約4分の中に10年ぐらいの芸歴が凝縮されているのが「漫才」

恥ずかしながら「漫才」という文化をほとんど知らずに生きてきた……ということにも最近気づいたぐらいである。そんな人間が生まれて初めて漫才に興味を持った。それほど和牛との出会いは衝撃だった。これはきっと私だけではないはずだ。ボケの水田信二とツッコミの川西賢志郎からなる結成12年目のお笑いコンビ。『M-1グランプリ』では2年連続準優勝を獲得するも、本人たちの目標はやはり「王者」になることだ。真摯に漫才と向き合うふたりが歩んできた道のりと、歩んでいく道のりとは。

――川西さんは大阪、水田さんは愛媛のご出身ですが、やはり子どものころから漫才は身近にあったのでしょうか?

川西  そうですね。僕が子どものころの大阪は、今よりももっと漫才のTV番組が多くて、週末になると漫才だけを流す番組も普通にあったんです。劇場にカメラが入って中継しているもので、TVやけど生に近いような空気感の漫才が、お茶の間でも見られてたんですよ。

水田  愛媛ではそういう番組は全然放送されてなかったです。子どものころによく見てたのは、ダウンタウンさん、ウッチャンナンチャンさん、とんねるずさんたちでしたね。

川西  あと志村けんさん。相方もなんですけど、僕ら入口は志村けんさんだったりするんです。

水田  僕はそういうのを見て、楽しそうやなというだけでお笑いをやりたいと思ったので、「漫才師になるぞ!」という感覚はまったくなかったんです。『M-1グランプリ』を見て、「漫才すごいな」と思った感じですね。

――そう思ったのはどうしてだったんですか?

水田  漫才って凝縮されてるじゃないですか。約4分の中に、10年ぐらいの芸歴が。そのエネルギーはやっぱり、漫才を志していなくても反応しちゃいますよね。料理人だったときから芸人にはなるって決めてましたけど、相方が見つかるまでひとりで生きていくための手段として、まず料理を覚えたんです。

川西  堅実ですよね。

水田  当時相方として誘いたかった奴も、愛媛から一緒に出てきて調理師学校に行ってたんですけど、恥ずかしくて言えなかったんですよね。友だちに夢を笑われたらショックやから……。

川西  とりあえず一緒に出てきて、少しずつ距離詰めながら、言おうと思ってたんやな?(笑)

水田  そうそう(笑)。

――そんな時代を経て、吉本興業の養成所(NSC)を卒業し、バイク川崎バイクさんの仲介でおふたりが出会います。

水田  卒業して2年後ぐらいですね。

川西  そのころには周りの同期もけっこう辞めてたりしたんですよね。続けてるのはもう相方がいてやることが定まってる人たちで、そういう中で出会ったんで焦りはありました。ただ、漫才はずっと好きだったので、芸人になりたいという思いは持ち続けてましたね。

――おふたりの主戦場は劇場ですが、昔は今よりアウェーなお客さんの前に立つ時代もあったかと思います。

水田  当時好きで作ってたネタはほとんど劇場のオーディションで落ちてたんですよね。それで、ちょっとわかりやすさを意識して、作ってみたんですよ。ほんなら受かったんですよね。

川西  うん。

水田  だからそのときあんまりうれしくなかったんですよ。やりたいことを100パーセントやってないのに、これで受かるんやあみたいな。自分のやりたいこととわかりやすさ、どっちもないとあかんのやろなというのは、だんだんわかってきて。自分が面白いと思うものを、自己満足で終わらせんと、どう伝えたらいいかというのは、ふたりですごい話し合いますね。ネタ作りではこの一文字変えようとかそういうレベルで。

しっかり見せたほうが、心から笑えるものになる


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