第163回芥川賞全候補作徹底討論&受賞予想。マライ「破局」遠野遥イチ推し、杉江「首里の馬」高山羽根子今度こそ。太宰治孫候補作で激論

2020.7.15


非常に気持ち悪くて楽しかった「破局」

マライ なるほど。では、私のイチ推しの「破局」についてお話してもいいですか。

杉江 お願いします。

『破局』遠野遥/河出書房新社
『破局』遠野遥/河出書房新社

「破局」あらすじ
大学4年生の〈私〉こと陽介は筋トレと公務員試験の準備に打ち込む日々を送っている。出身校のラグビー部で後輩を指導するのも大切な役目だ。政治家になることを目指して邁進している恋人の麻衣子とはあまり会えないでいるが、代わりに灯という1年生が彼に好意を示してきた。順調過ぎるほどに順調な陽介の日々が奇妙な視野角から描かれていく。

マライ これ、即物的な合理性を軸に生きる(自閉スペクトラム的にも見える)主人公の主観描写で展開する物語だけど、実は一種の異界小説で、でもその異界的要素のセッティングの仕方が極めて独特。「この唐突感、角度で来るか!」という感じ。唐突な、心霊体験ぽいナニカとか。それ系にありがちな文脈での接続ではないので、あの部分は本当に鳥肌が立ちました。とにかく、既存パターン性を打破しながら高レベルで知性をくすぐってくれる技の素晴らしさが堪能できます。でもオチがちょっと弱いかな、と感じてしまうのは贅沢でしょうか?

マライ「贅沢でしょうか」
マライ「贅沢でしょうか」

杉江 芥川賞候補作にありがちなんですが、「デウス・エクス・マキナ」(それが登場することで劇を強制的に終わらせる舞台装置〈機械仕かけの神〉)が下りてきた感は私も受けました。ただ、いわゆる「意識高い系」でかつマッチョな男が語り手なので、そういう終わり方しかできないようにも思います。

マライ そう、あの主人公のキャラ設定は重要ですね。今の若い人たちを覆っているもの、たとえば親に言われた言いつけを必死に守ろうとするのだが、結局破綻してしまう、的なイメージ。上の世代が構築した、完成度の高い「べきだ論」の被害者側的立場かもしれません。

杉江 マライさんが「異界」とおっしゃったのは、そうした偏った価値観に閉じこもった人間の物語という部分でしょうか?

マライ ああ、そうではなくて、小説の中で突然、まったく別の文脈が混入してくる点です。偏った価値観に閉じこもる人物像は、今の時代性の反映なのかなと。私は実際に高校で教えた経験がありますが、若者たちが「大人たちが押しつけてくる価値観」に対する絶望と「安定」への欲求を併せ持っていることを強く感じました。「みんなと同じレベルだったら、別に突出した存在にならなくていい。むしろ目立つから、避けたい」とでも言うべきでしょうか。夢があるんだかないんだかよくわからない世の中になっていて、一種の諦めもあるのかな、と思ったりします。でも、もちろん格好よく生きる若者もいるわけですけどね。

杉江 私は、語り手の〈私〉が思考する内容が何かのコピーのようで画一的である点が非常に気持ち悪くて楽しかったです。「この人はなんで、巡査部長が性犯罪を起こしたという新聞記事」を何度も見るんだろう、とか。まるで人間の記憶をコピーされたロボットが、時事風俗に言及するリソースがひとつしかなくて繰り返しているみたいな印象を受けました。

マライ それは自閉スペクトラム的な部分とも言えますが、彼は「欲」と「他人の価値観のチェック」のみで生きているんですよね。そこがなかなかすごい。

杉江 受賞しませんでしたが、話題となった古市憲寿『平成くん、さようなら』(文藝春秋)も同様の価値観を持つ人物を出してその虚ろさを描いた作品でしたね。現代人の、特に壮年層までをいかにカリカチュア化したモデルにできるかというのが今の芥川賞候補作に共通した試みだと思いますが、徹底的に「私」の「正しさ」にこだわるモデルを提供することで「破局」は自動的に批評的視点を獲得したように思います。

『平成くん、さよなら』古市憲寿/文藝春秋(第160回芥川賞候補作)
『平成くん、さようなら』古市憲寿/文藝春秋(第160回芥川賞候補作)

マライ 確かに、学校とかでも、「正しさ」にこだわる生徒が多くて、「正しくないことを言いたくない」あまりに、質問されても黙る(無視する)行動を取る人がいます。ネットの攻撃も「正しくないもの」は叩いていいみたいな風潮がありますしね。時代性のカリカチュアになっているかどうかといえば、「破局」の主人公は絶妙なバランスの上にいるので、杉江さんのおっしゃるように「非常に気持ち悪くて楽しかった」ですね。彼が突然祈り始める最後の場面は、主人公の「何もないゆえの脆さ」の表現だとも思います。

ドイツ人だからか仕かけに気づいてしまった「アキちゃん」

杉江 次に「アキちゃん」です。第125回文學界新人賞を受賞した三木三奈のデビュー作ですね。

「アキちゃん」三木三奈(掲載誌/2020年『文學界』5月号/文藝春秋)
「アキちゃん」三木三奈(掲載誌/2020年『文學界』5月号/文藝春秋)

「アキちゃん」あらすじ
〈わたし〉にとってアキちゃんは激しい憎悪の対象であった。アキちゃんと同じクラスになった小学五年生の1年間は人生の暗黒期と言ってもよかった。何かにつけて自分を支配しようとしてくる相手と共に暮らさなければならなかったからだ。あるときから〈わたし〉は、アキちゃんが自分に対して特別な感情を持っているのではないかと疑うようになる。

マライ これは「信用できない語り手」感が漂う、つまりミステリー的な構造を持つ作品ですね。著名批評家陣からも当事者が存在する問題を扱う上でその書き方はどうよ?と疑義を呈されたりしているけど、モラルを含む一般通念に対する多角的な知的挑発として、何もかも語るわけではなく通り過ぎたり、決めつけずに投げ出して終わったりしている点も含めて、完成度が高いと感じました。本質的な「ブンガク魂」という点でいい切れ味とインパクトを持つ小説、という表現も可能でしょう。政治的・倫理的・道徳的な「正しさ」を唱道する傍らで絶対にしぶとく燻りつづける「憎悪」の問題というのは、ネットの普及によって「呪い」が身近に一般化したこのご時世、非常に重要なテーマですし。

杉江 選評を読むと構成の問題が議論になったようですね。種明かしのタイミングが遅くてフェアではないという東浩紀委員と、より効果を上げるためには必要であったという川上未映子委員が激しく対立したとのことです。この選評の中でも川上さんが挙げておられましたが、「アキちゃんの手」のくだりは今回読んだ候補作の中で一番好きな文章かもしれません。さみしくてどこかに触れていたい手というのが素晴らしい。

杉江「さみしくてどこかに触れていたい手というのが素晴らしい」
杉江「さみしくてどこかに触れていたい手というのが素晴らしい」

マライ そしてドイツ人だからか、私はかなり初めからこの仕かけに気づいてしまいました(笑)。日本語とドイツ語の構造的な違いのため、「読み」の上でどうしてもそうなってしまうわけで。

杉江 おお、なるほど。これをドイツ語で表現するとどうなりそうですか。

マライ 難しいと思います。ドイツ語の文章でやろうとすると不自然になって、むしろバレやすくなってしまうかもしれません。だから日本語で読んで、ドイツ語に変換できないことに気づき、私は「おや?」と思ったわけです。この小説は、主人公がアキちゃんに対して嫌悪と執着の双方を抱えていますが、その矛盾性が際立つ点が素晴らしいと思います。

杉江 その憎悪と執着というのは今の日本でも根強い、ある偏見に基づくものという読み方もあるとは思うのだけど、子供時代の話なのであまり単純な図式に落とし込むのはどうかな、と思いました。選評を読んでいてちょっと気になった点です。子供時代の未分明な自我固有の感覚、そこから思春期に成長するときに対象との距離が開いてしまうことのもどかしさもあるはずで、読み方を狭めないほうがいいと私は感じました。

マライ そこはまったく同感です。物事に単純ポリコレ的な観点を充てがうと、ろくなことがない。

スリラーとして読まれても不思議ではない「アウア・エイジ」

杉江 というところで次の作品にいきたいのですが、「アウア・エイジ」でいいでしょうか。

『アウア・エイジ』岡本学/講談社
『アウア・エイジ』岡本学/講談社

「アウア・エイジ」あらすじ
40歳で大学教員として働く〈私〉は、かつて映写技師のアルバイトをしたことがあった。そのとき知り合ったミスミという女性のことを今も忘れられない。ミスミは母親との思い出につながるものとして、ある塔が撮影された写真を大事にしていた。偶然その写真を手に入れた〈私〉は、すでにこの世にないミスミに代わり、塔のありかを探し始める。

マライ 私も学生時代、ボンの映画配給会社でバイトしていた経験があるので、この作品で描写される旧式の映写機についてのあれこれのネタ話は、もう完全に「そうそう、そうなんですよ!」と受け止めました。

杉江 これまたミステリー的な構成が使われた、一般誌に発表されていたらヒロインの生涯に秘められた謎を解き明かすスリラーとして読まれても不思議ではない小説ですね。

マライ そうですね。ただ、正直いまひとつ入れ込めなかった。なぜかと思って考えてみたんですが、年齢とか性別とか、立場の違う人の心理や内面を描く際の微妙な違和感ってあるじゃないですか。それがこの小説の場合、「コレジャナイ感」みたいな方向に振れてしまった印象があります。だったら作者はもっと、自分の手中にある心理を描けばずっと素敵なのに、と感じてしまったのです。最後はすべてがきれいに収まり過ぎた気もして、途中の数学の話(カントール集合)などの描写が味わい深いだけに、何となくしょんぼりしてしまいました。

杉江 突飛な行動をするヒロインがいて、その母親が彼女の人格形成をしたことがわかってくる。ふたりの今はこの世にいない女性の心を、中年男性である語り手が自分なりに再現していくわけですよね。若いころは長い間童貞で女性には慣れてなくて、と告白しているような人物なので、対象に対して語り手は非常に距離感があります。そのアプローチの違和かも。

マライ そうですね。しかも彼はいわゆる「中年の危機」の最中にある。語り手は(それが作者主観の投影であるかどうかは別として)自身を美化して語る傾向があって、そこがたぶん好き嫌いの分かれるところだと思います。ちなみに私がこの小説について最初にメモったのは「私は読者層ではない」でした。

杉江 と言いますと?

マライ 「中年の危機にある男性の主観に一定レベル以上の共感性を持つ」ことが作品堪能の条件であるように感じられたからです。ふたりの女性の人生について真相を明かすはずが、なんとなく主人公の自己肯定に話がすり替わってますでしょう?

杉江 ああ、そう考えると「過去の女」をめぐる中年男の「俺」小説なのかもしれませんね。私小説的という言い方もできそうです。デビュー作である『架空列車』も鬱屈の日々を送る主人公が架空の路線を思い描く話なんですが、中心にあるのは「私」の克服なのかも。

『架空列車』岡本学/講談社
『架空列車』岡本学/講談社

太宰治の孫にして津島佑子の長女の「赤い砂を蹴る」


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杉江松恋

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杉江松恋

(すぎえ・まつこい)ライター、書評家。『週刊新潮』などのほか、WEB媒体でも書評連載多数。落語・講談・浪曲などの演芸にも強い関心がある。主要な著書に、『読みだしたら止まらない! 海外ミステリー マストリード100』『路地裏の迷宮踏査』、体験をもとに書いたルポ『ある日うっかりPTA』など。演芸関係では..

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