そこに立っていた誰かの胸の内は見落とされる
「ここから海は見えるかな?」
復旧工事の進む首里城の脇を抜け、物見台に辿り着いたところで、青柳さんがつぶやいた。海は見えなかったけれど、首里城は小高い丘に建っていて、那覇の街並みが見渡せる。そういえばここは文字どおりの「城」だったのだと思い出す。外から敵が攻めてこないようにと、辺りを一望できる場所に城を建てたのだろう。
かつてこの場所からは、燃え上がる那覇の姿が見えたはずだ。
那覇が初めて本格的な空襲に遭ったのは、1944年10月10日のこと。街の9割が被災したが、首里城は被害を免れた。
Yahoo! JAPANの特設サイト「未来に残す 戦争の記憶」に、15歳で“十・十空襲”を経験した石川榮喜(いしかわ・えいき)さんの体験談が掲載されている。榮喜さんは少年戦車兵に志願しており、その日は受験日だったため、寮のある首里から那覇に出かけていた。そこで空襲に遭い、県庁の地下壕に逃げ込んだ。12時から13時まではランチタイムのため、米軍機は1機も飛ばず、その間に榮喜さんは首里まで逃げ帰った。そして燃え上がる那覇の街並みを眺めたという。
「ただもう眺めているだけでしたね。もうと燃えるのを。そういう、思いを頭の中に描くことはなかったですね。燃えるのを見るだけで――どんどん火の海になって燃え尽きるのを、全市民が眺めるような状況でしたね。頭がですね、そういう、思いが巡るようなことじゃなかったですね。もう目前が、6万都市がもうもうと燃えて消えていくことだけを、集中的に眺めるというだけでしたね」
空襲があったことは年表に残る。でも、そこに立っていた誰かの胸の内は、時間が経てば見落とされてしまう。
首里城は琉球が統一される前には、群雄割拠のグスク時代があった。各地の有力者たちはグスク(城)を築き、勢力争いが行われた。のちに琉球王家の居城となる首里城も、最初は数あるグスクのひとつだった。何百年前にそこで命を落とした誰かのことは、歴史に記述されることなく、忘れ去られてゆく。
太平洋戦争のとき、首里城の下に地下壕が掘られ、陸軍の第32軍総司令部が置かれた。“十・十空襲”による被害を免れた 首里城だったが、地上戦が始まると激戦地となり、ことごとく焼き尽くされた。その風景を目の当たりにした人は、もうすぐいなくなってしまう。戦争から時間が経過するにつれて、戦争の記憶は薄らいでゆく。今から何百年と経てば、「ここで地上戦があったのだ」ということも、わたしたちが戦国時代の話を聞くのと同じような感覚になるのだろう。
それは戦争に限ったことではない。火災で燃え上がる首里城の姿を目にしたことだって、いつかは遠い昔話のように、夢の話と同じように受け取られてしまうときがやってくるのだろう。でも、どんなに遠い昔話のように、夢の話のように思えることだって、確かにそんな瞬間が存在していたのだ。