『キングオブコント2021』優勝、昨年の単独ライブは約2万5千人を動員するなど、お笑い芸人として、コント師として、成功を収めている空気階段(鈴木もぐら、水川かたまり)。
そんな彼らとて、始めから光の道を歩んできたわけではない。出口の見えない暗闇をさまよってきた時代があるのだ。若者だったふたりが、苦境に立たされながらも前を向けた理由とは?

新たなチャレンジを始める社会人や学生・フレッシャーズたちを応援するFRISK「#あの頃のジブンに届けたいコトバ」プロジェクトで、苦しい時期の自分に向けて書いた手紙と共に振り返る。
目次
大学中退、バイト漬け…「現実の自分を見ないようにしていた」
──かたまりさんは18歳のころ、もぐらさんは20歳のころの自分に向けて手紙を書かれました。当時、それぞれどんな状況だったのでしょうか?
水川 18歳のとき、大学進学のために岡山から上京しました。僕の想定では、たくさんの友達ができて、恋人もできて、いろんな人と切磋琢磨しながら勉学に励み、大企業に入ってお金持ちになる……という未来を描いてたんですけど、本当に友達ができず、3カ月ほどで大学に行かなくなりました。
そこからゲーム『実況パワフルプロ野球』(以下『パワプロ』)の「サクセスモード」(オリジナル選手を育成するモード)にハマり、ひたすらいい選手を作っては、そいつに“自分の人生”を投影させて成功体験を得る、という生活を送っていましたね。
大学に入って、東京で一人暮らしを始めて、大学に馴染めず、ホームシックになり、引きこもって、豚肉ともやしを茹でたやつにポン酢をかけたものを毎日せっせと食べている頃でしょう。
水川かたまりの手紙より抜粋(「#あの頃のジブンに届けたいコトバ」supported by FRISKより)
思い描いていた理想のキャンパスライフと乖離し過ぎていて、現実逃避としてパワプロのサクセスモードで一心不乱にオールAを生み出しまくっていることでしょう。

鈴木 僕はデビューして数年後の時期です。お笑いの給料はほぼナシで、給料が5円のときもありました。それだけでは食えないので、歌舞伎町でアルバイトをしつつ、日払いでもらった金でギャンブルをして、勝てば寿司、負ければただ寝る生活を繰り返していました。
そこのあなた。
鈴木もぐらの手紙より抜粋(「#あの頃のジブンに届けたいコトバ」supported by FRISKより)
そう、そこの、歌舞伎町の飲み屋でバイト中のあなたです。
お客さんに酒をぶっかけられて、下を向いている暇はありませんよ。
今日はまだまだ酒をぶっかけられるんですから、とりあえずササっとテーブルを吹いて、すぐにお客さん(8つ下のキャバ嬢)の酒作って!
早くしないと、「グラス空いてたらぶっかける酒がねえだろ!」って怒られますよ!

──当時、具体的にどんなことに悩んでいましたか?
水川 大学に入ってから3年半は楽しく遊んで、最後の半年だけ就活をがんばったら大企業に入れると思っていたんです。なのに大学に入った瞬間、みんな「ゼミはどうする?」だの、「ここの講義はとっておいた方ほういい」だの、ちゃんとした話をしていて、すっごく萎えたのは覚えています。
──思っていたのと違うなと。
水川 そうですね。何も考えずに楽しく遊べると思って受験勉強をがんばったのに、思ったよりみんなちゃんと将来のことを考えていたので、「それだったら僕は『パワプロ』をやるよ!」とすねました。
鈴木 なんで『パワプロ』なんだよ(笑)。僕は、芸人9年目ぐらいまでバイトを辞められなかったんですけど、芸人活動中よりもバイト中にいろいろと考えることが多かったかもしれません。
カラオケバーで働いていたとき、10歳くらい下のキャバ嬢に寿司の出前を頼まれたんですが、サビ抜きを伝えるのを忘れちゃって……その女の子に「てめえ、サビ抜きつっただろ!」とものすごく怒鳴られました。僕としては(年下に怒られるのは)全然大丈夫なんですが、先祖のことを考えて申し訳ないなと思いましたね。
水川 先祖?(笑)

──それぞれ苦悩の時期を過ごされていましたが、当時の“自分”をどう捉えていましたか?
水川 『パワプロ』でいい選手はもちろん、一芸に特化した選手も作れるようになっていたので、そこはすごく自信がありました。
──そうすることで「自分を保っていた」みたいなところがあるんですか?
水川 本当にそうだと思います(笑)。正直、現実を見てもしょうがないというか、「ゲームの世界での俺が、本当の俺」という感覚でした。大学に行かず、バイトもやらず、仕送りだけで生活している現実を直視しないようにしていましたね。
──もぐらさんはいかがですか?
鈴木 カラオケバーのバイトは芸人もよくやるんですけど、先輩はそういうところでスベってもうまく立ち回るんです。でも僕は全然ダメで……。お客さんは酔っていて笑いやすい状況なのに、それでも楽しませられないんだって、ヘコんでたんですよ。
そんなときにカラオケでJanne Da Arcさんの曲を歌うと、みんなが盛り上がってくれることに気づいて。「こいつ、マジつまんねー」と言ってくるキャバ嬢も、僕が『ダイヤモンドヴァージン』を歌うと「フーッ!」みたいな。そこだけは自信が持てましたね。

──当時、これからの未来に感じていたことを教えてください。
水川 大学に行かなくなってからは、“現実世界の未来”なんて何も考えていませんでした。だって、四六時中『パワプロ』をしていましたから。
鈴木 こいつは(『パワプロ』に出てくる)ダイジョーブ博士に改造されて失敗した人間かもしれないですね。
──(笑)。もぐらさんはどんな未来を見据えていたんですか?
鈴木 当時は……kどえjほいwじぇお@
水川 声どした?(笑)
鈴木 (咳ばらいをしつつ)すみません。当時、出られるお笑いライブは出番が1分や2分のライブ。明るい未来を想像できる素材がまったくなかったので、少ない材料をかき集めて、無理やり未来を見ていたと思います。
このままお笑いを辞めたくはなかったので、そのために「カラオケバーで仲よくなった社長主催のパーティーで司会をやれば、5万ぐらいもらえるのかな?」とか考えてました。
水川 未来見えなさすぎるって(笑)。
鈴木 お笑いを辞めないために、そういうことを考えてたのよ。それを月に5件やれば25万円で食えるな、とかね。
「根拠のない自信があった」水川かたまりの転機
──かたまりさんは、散歩中にiPodからTHE BLUE HEARTSの『未来は僕等の手の中』が流れてきてNSC(吉本の養成所)に入ることを決意されたそうですが、そこに行き着くまでに具体的にどのようなことがあったのでしょうか?
憧れは募るけど踏ん切りがつかないある雪の降る日に、iPodで音楽を聴きながら外を散歩しているとき、未来は僕等の手の中が流れてきて芸人の養成所に入ることを決心します。養成所は面白い人もつまんない人もいて、とりあえずはみんな楽しそうなところです。
水川かたまりの手紙より抜粋(「#あの頃のジブンに届けたいコトバ」supported by FRISKより)

水川 ある日、ゲーム以外のことをやろうと思って、レンタルDVD屋に行きました。そこで、高校生のときからラジオを聴いていた爆笑問題さんの漫才DVD『爆笑問題のツーショット』と、東京ダイナマイトさんの全国ツアーの道中を収めたDVD『漫才ふたり旅』を借りたんです。
爆笑問題さんは本当におもしろかったし、東京ダイナマイトさんも楽しそうで、かっこよくて、おもしろくて。「これで生活できるって一番いいじゃないか!」と、芸人をやってみたいと思うようになりました。
当時、僕のiPodにはTHE BLUE HEARTSの曲が入ってました。中学生のときに「お前も中学生になったし、大人や社会に対して苛立ちを覚えることもあるだろう」と父親がCDをくれたのですが、正直、当時の僕は優等生でしたし、何不自由ない生活を送っていたんで、大人に対しての苛立ちがなかったんです(笑)。
でも、大学に行かなくなったあとに聴き始めたら「(甲本)ヒロトとマーシー(真島昌利)は、なんて俺に語りかけてくるんだ!」と思って。

──(笑)。
水川 雪がすごく積もった日、川べりを散歩しているときに、イヤホンから『未来は僕等の手の中』が流れてきて、「ヒロトもこう言ってるんだからやらなきゃダメだろ!」と思いました。
今思うと、お笑いをするのに、ただかっこいい理由がほしかっただけなのかもしれませんが(笑)。そこで、NSCに願書を送ろうと決めました。
──当時、なぜその決断ができたと思いますか?
水川 昔から勉強にしろ、スポーツにしろ、自分が「ここまではできる」と思ったらできる、という根拠のない自信があったんです。お笑いにも自信があったので、当時は、3年以内に『キングオブコント』優勝、5年後に『M-1』優勝できるとマジで思っていました。
鈴木 なんで『M-1』のほうだけ2年なげーんだよ。
「生きてさえいればいい」鈴木もぐらの転換
──もぐらさんは、苦労した下積み時代をどのように乗り越えたのでしょうか?
鈴木 とりあえず、この日本に住んでいれば餓死することはないと気づいたんです。誰かに本気でお願いすればメシは食わせてもらえるし、バイトも選ばなければ雇ってくれる人もいる。そう思ってからはラクになったかもしれないです。
──ある種、開き直ったんですね。
鈴木 でも、一番やりたいことが芸人だったんで、もしそれを辞めるとなったとき、「やりたいことができなくなった人生」になっちゃう怖さはありました。だから、なんでもいいから生きる術を見つければ、(芸人を)続けることができるだろうと。

──「どうにかなる」という精神になれたきっかけは?
鈴木 ……やはりJanne Da Arcさんかもしれないですね(笑)。心を開いてくれなかったキャバ嬢があれだけ喜んでくれたということは、自分は誰しもが何かしら笑ってしまう部分、喜ぶ部分を持っていると思ったんですよね。
──(笑)。その中でも「このまま売れるのだろうか」とネガティブになることはなかったんですか?
鈴木 ヒロトが以前「ロックンロールを始めた時点で夢が叶っている」と言っていましたけど、僕もヒロトみたいな感じだったんですよ。
水川 ……ヒロトみたいな感じ?(笑)
鈴木 「お前が何言ってんだ!」って話ですけど、まさに、お笑いを始めた時点で夢が叶った状態だからこそ、逆にできなくなったときが怖かったんです。自分が辞めさえしなければ、ずっと続けられるものなので。

好きなことを、好きなように続けてください
──それぞれ手紙に書いていた“あのころ”を振り返って、当時の自分に届けたい言葉はありますか?
水川 当時の僕は、もっといい感じを想定していたんで、19〜20歳ぐらいの自分に「今は34歳で、芸歴13年で、こういう芸風で……」と言っても多分ガッカリすると思うんですよ。だから今の状況は言わないですかね。
鈴木 僕は、少し前にパチンコの縦型ハンドルが出たので、それを教えます。
──(笑)。ご自身の現状は伝えないのですか?
鈴木 今のことを伝えると、たぶんサボるので言わないと思うんですよね。言うとしたらハンドルのように「本当に?」ということを教えて、それを楽しみに生きてほしいです。

──おふたりとも現状は伝えないんですね。もぐらさんは、手紙の中の「そのまま変わらずに、好きなことを、好きなように続けてください」という言葉も印象的です。具体的にどんな思いがあるのでしょうか?
今日はお礼を伝えにきたんです。
鈴木もぐらの手紙より抜粋(「#あの頃のジブンに届けたいコトバ」supported by FRISKより)
そのまま変わらずに、好きなことを、好きなように続けてください。
あなたがいる世界から10年経ちました。
今の私ですか?
私はいま、歯が8本ありません。
目も悪く、足も悪く、人から臭いと言われる日々を送っています。
ただそれでも、幸せです。
やめないでくれて、ありがとう。
鈴木 「あいつはダメだ」と言われても、好きなものを好きなようにやり続けてほしいということですね。これは芸人活動にもつながることです。
もし芸人をあきらめていたら「今ごろどうなっていたのかな?」とずっと考える人生になっていたと思うんです。やりたいことがあるなら今すぐにやったほうがいいし、これには年齢は関係ない。やりたいことをやったときに出る“初期衝動”、これがすべてだと伝えたいですね。

──やりたいことを続ける中で、苦しいことや緊張することも多いと思います。そんなとき、どんなふうに切り替えていますか?
水川 僕は「しんどいな」と思うことにあまり向き合わないようにしています。精神的に負担がかかることが起こったとき、「自分に合ってないから別に(どうなっても)いい」「これでまた心臓が強くなったから、いい経験だったんだ」と思うようにしていますね。
それでも悩んだときは、とにかく“走る”のをおすすめします。僕、昔からよく走っているからか、みなさんが思ってる15倍は持久力があるんですよ。悩んでることがどうでもよくなってスッキリするので、ぜひ走ってほしいです。
鈴木 僕はめちゃくちゃラクですよ。まさにヒロト方式で、「自分がやりたいことをやっているんだから、それ以上の幸せはないでしょ」という考えに転換するんです。
一番やりたい仕事でもキツいと思う瞬間があるのに、やりたくない仕事にプラスして嫌なことやキツいことがあるって、相当しんどいと思うんですよ。だから僕は「やりたいことをやっているんだから」と前向きに切り替えるようにしています。

──アフターコロナになったものの、前向きになれない人も多いそうです。そんな時代や社会のムードについて思うことを教えてください。
水川 もちろん、いろいろあるとは思いますが、暗いムードがあろうがなかろうが、おいしいものはおいしいですし、笑えるものは笑えます。これを周知するのは、僕みたいなメガネだと無理なので、一度、ギャルとかに「ちょっと待って。みんな別に大丈夫じゃない!?」と言ってほしいですね(笑)。
鈴木 僕が接しているまわりの人って、みんな好きなことしかやってないんですよ。好きなことをしてる人は、みんな目をキラキラさせている。コロナ以降も何も変わってないし、全員が希望を持って挑んでいるので、プラスのエネルギーしかない。「世の中には楽しいことがたくさんあるんだよ」と伝えたいです。
──これからの5年、10年は、どんなふうに人生を歩んでいきたいですか?
水川 子供たちのスターになりたいです。平日朝の番組でコントをやって、学校に行く前の子供たちの心の中に空気階段を植えつけたい。その子たちが大人になったときに、稼いだお金を僕たちに還元するような……そんな土台を作っていきたいですね。

鈴木 僕は、ピラミッドを生で見てみたいんですよ。数年後は、ピラミッドを見に行ける人生であってほしいです。
──今も実行しようと思えばできるんじゃないんですか?
鈴木 結局まだ行けていないということは、そういう人生だってことなんですよね。一度見たかった富士山は東海道新幹線で何回も見たので、もういいかなって(笑)。ピラミッドは滅多に見られないので、本物を見てみたいですね。

FRISK「#あの頃のジブンに届けたいコトバ」プロジェクト
新たな一歩やチャレンジを前向きに踏み出すことを応援する、FRISK「#あの頃のジブンに届けたいコトバ」プロジェクト。2025年は、空気階段・藤森慎吾・長濱ねる・宇垣美里・ゆっきゅんなど、11組のアーティストやタレント・クリエイターが「あの頃」の自分に宛てた手紙を執筆。

手紙の内容について、CINRA、J-WAVE、me and you、ナタリー、NiEW、QJWebでインタビューやトークをお届け。直筆の手紙全文は4月10日(木)から下北沢BONUS TRACKで開催されるFRISK『#あの頃のジブンに届けたいコトバ展』で展示される。
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