ナイツとダイヤモンドの漫才から見る、ラップとの共通点。私小説への接近と“リズムをどのように紡ぐのか?

【ラップと漫才の時代】第7回

文=つやちゃん 編集=小林 翔


新たな角度と言葉からラップミュージックに迫る文筆家・つやちゃんによる、ラップと漫才というふたつの口語芸能のクロスポイントの探求。『クイック・ジャパン』と『QJWeb』による合同連載「扇動する声帯──ラップと漫才の時代」Chapter7。

Chapter7「語りで丸裸になれるか?」

リズムを幾分手放した、ラップならぬラップがある。リズムを刻めるという利点を自ら放棄し、平坦な道に言葉を次から次に置いていく方法が許されているラップが存在するのだ。

ポエトリーラップ。いささか抑揚を失ったその不思議なジャンルは、極めて反-ラップ的な要素で成り立っている。

ラップは本来、「私」の丸裸の語りを技巧や押韻によって補強していく面がある──ときに免罪符として。ラップは、私小説が持つある種の剥き出しの恥ずかしさを、韻を踏み工夫を凝らすことで打ち消す力があるのだ。つまり、リズムを獲得したラップは、朴訥とした/カッコつけた/シャイな/勝気な少年少女に自分語りを許す武器となる。

と同時に、リズミカルな押韻は思いもよらない言葉を天から与え、言葉同士を接続させ、意味をきっかけにした詩世界の拡散を喚起する。それは、一定の調子でページをめくるごとに物語が広がっていく紙芝居のようだ。ラップは、私小説を紙芝居化することで詩世界を拡げフィクション性を加え、自分語りにまつわる恥をひらりとかわしていくのである。

かたやポエトリーラップは、ラップの持つ私小説としての側面をまっすぐな姿勢で極めていく。ポエトリーリーディング的な一筆書きとしての勢いを優先するその形式は、韻やリズムの誘惑を退け、平坦な言葉を連ねることで「言ってしまえ」というパワーを手に入れ、内省を許す。言うなれば、ポエトリーラップとは押韻やリズムといった技巧で恥ずかしさを覆い隠すことのない、丸裸の私小説だ。それは決して紙芝居ではない、一枚の真っ白な紙に延々と綴られた般若心経のごとき日記である。

「照れ隠し」の押韻

丸裸の私小説として、2010年にリリースされた一枚の優れたアルバムがあったことを忘れない。あるぱちかぶと『◎≠』は、日本語ラップ史に残る重要な作品であると同時に、ラップとポエトリーラップの違いについて示唆を与えもする。

「顎とほっぺのお髭を飽きずにじりじり鳴らして新聞読んでるお父さん/僕と弟パジャマをたたんでよ~いでストーブまで駆けっこ/祖父母のおうちのコケコッコーより元気な母さん転がすウインナー/焦がしたトーストふ~ふ~しながらココアをズルズルすする/ガラガラぺーして黄色い帽子で寝癖をおさえて行ってきます/さぁからった鞄と回覧板どんぐりのヤジロベー小指に乗っけて/パイナップルで階段下りたら団地の広場でおはよう」

(「完璧な一日」より)

連なる情景描写がポエトリーラップの「勢い」によって、こみ上げる哀愁がポエトリーラップの「内省」によって、ひたすらに綴られていく。私小説のある種の恥ずかしさに対して、勢いが亀裂を走らせ哀愁が熱を与える。

完璧な一日 / あるぱちかぶと

かつて彼は、とあるインタビューでラップについて次のように語った。

「韻を踏むことで、思いも寄らない言葉が出てくることもあるんです。それは楽しいんですけど、確固たるメッセージがあるときは、無理してまでも韻を踏もうとは思わないです。僕にとって韻を踏むことはある種の照れ隠しなんです」

「落語が好きで。落語は韻を踏まずに最後まで聞かせる。そこにはラップとの共通点があると思うんです」

「立川流が好きですね。とくに立川談志が好きです。他は古今亭志ん朝も好きですね。で、一時期、自分のまわりの友だちのラップのライヴを観ていて、すごくマンネリを感じたことがあったんです。同じ繰り返しに思えて。だけど、落語の場合は、同じリフレインでも言葉の(意味が)どんどん膨らんでいくようなところがあって」

ele-kingより

あるぱちかぶとは韻を踏むことを「照れ隠し」であると述べ、落語のリフレインによる(押韻に頼らない)意味の膨張の魅力を語るのだ。ゆえに、彼のポエトリーラップは、照れに対し真正面から挑んだ丸裸の私小説であると言えるだろう。

抑揚が消え、身体性が浮上する/ナイツの試み

漫才においても、抑揚を後退させることでまさしくポエトリーラップのような平坦な語りを生んだ作品がある。ナイツは、ひたすら一本調子にボケ続ける塙宣之の漫談と、そのテンポを乱さない程度にツッコミを入れていく土屋伸之による「言い間違い漫才」で一世を風靡した。

機械的で無機質な点を指して本人たちはテクノと称するが、別の側面では言葉を淡々と発していくそのスタイルはポエトリーラップ的とも言えるだろう。2008年の『M-1グランプリ』決勝で「4分間に何個笑い入れとんねん」と訊かれた彼らは即座に「37個くらいだと思います」と応答したが、そのままそれはワンループ×37回のリズムであるとも言える。37回のワンループに乗せて置かれるボソッとしたボケは、いわゆるしゃべくり漫才の激しい抑揚/高低差/温度差とは対極にあるものだ。

ラップも漫才も、丸腰でステージに上がるという露わな身体性に対する向き合い方がそのスタイルに大きく影響を与える。つまり、塙宣之は激しい抑揚に頼ることのないボソッとした語り──つまり丸腰のポエトリーラップ的姿勢──で笑いに迫った点において、他者と一線を画していた。それは、『M-1グランプリ』で主流である(関西中心の)起伏の激しいしゃべくり漫才に対するカウンターであったと同時に、漫才に私小説的なまっすぐの語り口を取り戻す試みでもあった。

ゆえに、「言い間違い漫才」からは塙宣之のキャラクターが透けて見える。ねばねばしたしつこさ、頑固なこだわり……あるぱちかぶとのポエトリーラップから彼のキャラクターが伝わってくるのと同様に。

日常を撹乱する語り/ダイヤモンドとRYKEY DADDY DIRTY

一方で、隙間を多く用意し言葉を間引いていくようなポエトリーラップ的漫才を披露するのはダイヤモンドである。

淡々としたしゃべりを連ねていくのはナイツ同様だが、彼らは決して言葉を詰め込みボケを重ねることでリズムを生むわけではない。たとえば代表作である『スタバ』では、身体の動きも加えゆったりとしたテンポで対話を繰り広げながら「ショート/トール/グランデ/ベンティ」というコーヒーサイズを反復することで、一定のテンポを創出していく。その平坦さにはポエトリーラップ的特性を観察できるが、ナイツよりもフィクション性を強めていく点でラップ的とも言えるだろう。

事実、大相撲の番付を展開していく「序ノ口/序二段/三段目/幕下……」というパートでは楽曲のクライマックスを盛り上げるラップの過剰反復とも言うべき作法が垣間見え、おにぎりのエピソードのくだりで「勉強になるなぁ!」と強調するシーンでは幾度となく繰り返された「ベンティ」との頭韻(Ben)が披露される。

このダイヤモンドの漫才では、飛行機やおにぎりのエピソードなど飾らない日常会話が平坦なイントネーションで挿入される。冗長なそれらの時間は意図的な弛緩を狙ってのことだろうが、奇しくもポエトリーラップの丸裸の素朴さとも共通点が見える。

たとえば、不可思議/WONDERBOYのアルバム『ラブリー・ラビリンス』(2011年)を聴けば、素朴な語り口調での感情の表出がポエトリーラップのひとつの特徴であることがわかるはずだ。ダイヤモンドは、反復や押韻といったラップ的アプローチに、ポエトリーラップ的な日常風の語りを入れることで漫才に<生活感>を持ち込み、フィクションとノンフィクションの境界を揺らがせるのである。同様に、ラップとポエトリーラップの間で揺らぐことでフィクションとノンフィクションの間を行き来し、物語に躍動感を与えるラッパーがいることも忘れてはならない。RYKEY DADDY DIRTY般若MSC舐達麻の一部の曲は、ときにポエトリーラップに接近することによって現実社会のリアリティとホラー的虚構を回遊する効果を発揮する。

RYKEY & BADSAIKUSH「Roots My Roots」はまさにラップともポエトリーラップともとれるような不安定さを見せる興味深い楽曲で、RYKEYは「街灯と」「ライトと」「ラストダンスとナイト」「タイト」「ファイト」「内緒」で律儀に韻を踏み倒したのち、以下のヴァースで突如くだけた素顔を見せる。

そんな毎日を繰り返してるのは内緒/お前にしかできねえ話をさしてくれ/そこで出る話は全て俺の本音/全てが全て、俺の気持ちだぜ/お前の気持ちで受け止めてくれりゃ/それで良いぜ Believe it!/まるであくまでもleave itしてたときのことは/決して思い出しちゃいけねえ believe it/Believe it

「Roots My Roots」RYKEY & BADSAIKUSH

「お前にしかできねえ話をさしてくれ」「俺の気持ちだぜ」というラインが日常会話に近いイントネーションで吐き出されることで一瞬意表を突かれ、続く「believe」のクセのある発音と笑い声によってラッパーのキャラクターがせり出してくる。私たちは、ドキリとする。RYKEYの一糸まとわぬ「私」という身体が脳裏に浮遊し、追い詰められる。このとき、話者は世界のすべてと化するのだ。「私」は世界に、世界は「私」になるのだ。

Roots My Roots / RYKEY × BADSAIKUSH “舐達麻” (prod.SIBA)

抑揚といかに向き合うか?

──この問いは、ラップと漫才に新たな視点を持ち込む。作品に抑揚をなくしたポエトリーラップ的発想を導入することで、照れから逃げず対象に向き合い、私小説へと接近し、キャラクターや人間性を浮き上がらせる。あるぱちかぶとのラップとナイツの漫才は言葉を詰め込むことによって急進的なアプローチでそれらを表現し、かたやRYKEY DADDY DIRTYのラップとダイヤモンドの漫才はフィクション性とノンフィクション性の間を揺らぐスタイルによってその実現を果たす。

押韻をいかに重ねるか? リズムをどのように紡いでいくか? 多くのラッパーが戦っている局面について、ときに無効化する力をポエトリーラップは持っている。技巧とは、手段にすぎない。ある種のラッパーと漫才師は、内向的な話者としてテクニックを超えた次元で「私」を露呈させることができるのである。

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