真の「共助」と「連帯」
筆者はこの原稿を、ベッドの中で書いている。とうとうコロナに感染し、発症してしまったのだ。ただ、こうしてどうにか仕事をやれていることなどを考えると、幸いにも症状は「軽症」に分類されるもののようで、こうしてどうにか仕事にありつけていることが、社会的にも「軽症」であることを示している。
しかし、筆者と完全に同じ症状の人がいたとして、それを「軽症」だとは断言できない。いや、すべきではないだろう。一人ひとりの身体は異なっていて、それぞれが置かれている環境だって違うのだ。であれば、当然ながら現れる影響も違ってくる。頭が割れるように痛くても「軽症」だという人もいれば、陽性反応が出た時点で社会との関係性が危うくなる人もいる。
コロナは人によっては“ただの風邪”などでは絶対にない。身体だけでなく、生活そのものをも蝕むもの。これは多くの人が実感しているところであろうから、これ以上は言及しない。ただひとつ言っておきたいのは、筆者の「軽症」がどれくらいキツいものかあなたにわからないように、筆者にも誰かの「軽症」の実態がわからないのだということ。ここで重要なのが、やはり想像することだろう。
苦しんでいる当事者に「声を上げろ」と言いたい人の気持ちはわかる。確かに、声にしてもらわなければ周囲は気がつかないことだってあるはずだ。けれどもさまざまな理由によって、声にできない人たちもいる。『夜明けまでバス停で』の主人公・三知子は、まじめで責任感が強く、他者に弱いところを見せられない性格だ。自分から他者に頼ることがなかなかできない。
そんな人に「あなたが声を上げないのだからどうしようもない」と突き放してしまうのは、「自己責任論」を押しつけるのと変わりないのではないだろうか。だからこそ想像力を持って、“声にならない声”を察する姿勢が必要なのである。
人によってはよけいなお世話なのかもしれない。手を差し伸べた側が、傷つくことになることがあるかもしれない。しかし、いつその立場が変わってもおかしくはない時代だ。ある種のリスクを覚悟することが、誰かと同じ目線に立つことにつながるのではないだろうか。そこまでしてようやく、真の「共助」と「連帯」のきっかけが掴めるように思う。
もちろん、誰もが同じように手を差し伸べられるわけではない。それは本当に余裕があるときだけでいいはずだ。しかし少しでも気になったならば、うつむいたその顔を相手が上げるまで、呼びかけつづけてもいいのではないか。幡ヶ谷のバス停で夜を明かし、人知れず命を落とした女性には、“大林三佐子さん”という名前があり、人生があったのだ。
もうあのころには戻りたくない。誰だって同じである。あんなに胸が痛む思いはもう二度としたくない。これも、誰だって同じではないだろうか。
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映画『夜明けまでバス停で』
2022年10月8日(土)より新宿K’s Cinema、池袋シネマ・ロサほか全国順次公開
監督:高橋伴明
出演:板谷由夏、大西礼芳、三浦貴大、柄本明
配給:渋谷プロダクション
(c)2022「夜明けまでバス停で」製作委員会関連リンク
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