ゲイを「オープン」にしないのは“臆病”か?「言わせない」社会が向き合うべき問題とは
性的マイノリティの人々が各自の性的指向や性自認を理由に、ハラスメントや差別、不利益を被るケースの多さから自身のアイデンティティを公にできず、苦しめられる事例はいまだ頻発している。最近でも、特定のセクシュアリティやジェンダーの人々に対する差別的な発言が政治家の口から発される場面が見られるなど、無知と偏見に基づく問題の根深さに改めて考えさせられる。
自らのアイデンティティを他者に伝えるリスクについて、当事者が考えなければならない社会は、果たしてあるべき社会の姿なのだろうか。本稿では、31歳の会社員TAN(LGBTQ+に関するコンテンツを作るチーム「やる気あり美」の一員、セクシュアリティはゲイ ※プロフィールより)が、“ある言葉”との出会いにより得た気づきについて綴る。
「カミングアウト」するって、どんなこと?
初めて会った人に自分がゲイだと伝えたとき、よく聞かれる質問があります。それは「オープンにしているんですか?」というものです。
「オープン」とは「自分のセクシュアリティを公にしている人」を意味していて、この表現はLGBTQ+の当事者にはなじみの深い「カミングアウト」という言葉から派生してできたものだそうです。「カミングアウト」は、性的指向や性自認を自身の意志で他者に伝えることで「クローゼットの中から出てくる(coming out of the closet)」という英語の表現に由来しています。
この比喩から派生して、カミングアウトをして自身のセクシュアリティなどを外の世界に公表した状態のことを「オープン」、カミングアウトをしないでいる状態を「クローゼット」と呼びます。この定義に当てはめると、職場や家族に自分がゲイだと伝えている僕は、「オープンな人」になります。
ゲイであることを「オープン」にした理由
僕が自分のセクシュアリティを公にしようと思ったのは、思春期に触れた映画や本の影響が大きく、中でも大学生のときに観たアメリカのテレビシリーズ『glee/グリー』が決め手になりました。
『glee/グリー』はオハイオの高校を舞台にした青春ドラマです。その中に、学校で唯一ゲイをオープンにしたカートというキャラクターがいました。彼がカミングアウトをして、家族や友達との関係を再構築したり、恋人を作ったり、夢を叶えたりする姿に感化され、19歳の僕はカミングアウトすることを決めました。
それ以来、友人や両親、会社の同僚に積極的にカミングアウトをしてきました。誰にも嘘をつくことなく、本当の自分を知ってもらえて、ようやく人生が始まった感覚を今でも覚えています。
しかし、初めてカミングアウトをしてから10年以上が経った今。正直に言うとかなり疲れてきました。自分で決めたことですが、新しい人と出会う以上、カミングアウトはつづいていきます。終わりがないことは負担だし、ゲイに対してネガティブな反応をする人がいるコミュニティでは、不安も強く感じます。
以前なら同じ状況でも「自分と接することが偏見を解くきっかけになるかも」と前向きにカミングアウトをしてきたけれど、ここ数年でネットでのLGBTQ+に対する差別的な発言に触れることも増え「こんなふうに思われてしまうかも」と、以前のように勇気が出なくなりました。
“Inviting In=招き入れる”という発想
そんなときに「Inviting In」というコンセプトを紹介する記事を読みました。そこでは自分が感じていたカミングアウトに対するストレスが見事に説明されていました。
「Inviting In」とは「カミングアウト」とは似て非なるものです。カミングアウトのように自分の性的指向や性自認を公に“告白”するのではなく、共有したい相手を選んで、自分の世界に“Inviting In=招き入れる”というコンセプトだそうです。
Inviting Inとカミングアウト。このふたつは「自分の性的指向や性自認を他人に共有する」という点で同じですが、前提の考え方が異なります。カミングアウトには自分のことを公に“告白する”ことで「相手に受け入れるかどうかの判断を委ねてしまう」側面があります。その証拠に、カミングアウトには「成功」や「失敗」という言葉がついてまわります。相手に受け入れられなかった“カミングアウトの失敗談”を聞いたことがある人も多いのではないでしょうか。
「言わせない」社会に原因がある
自分のアイデンティティを他人が「受け入れる/受け入れない」の判断をする。本来ならば、そんなことはあってはならないと思います。しかし現状、カミングアウトにはそのリスクが含まれています。
しかし、自分が望んだ相手にセクシュアリティを共有し、自分の世界に招き入れる(Inviting In)とき、相手に自分の存在を否定する力はなく「誰を受け入れるか/誰を受け入れないか」を決めているのは自分です。
これをただの言葉のあやだと思う人もいるかもしれません。しかし言葉の持つ力は大きく、現にカミングアウトは「オープン」と「クローゼット」の言葉の持つイメージから、オープンなことがいいこと、クローゼットなことが悪いことのように捉えられることがあります。僕がオープンだと知った友人に「勇気があるね」と必要以上に賞賛されたり、クローゼットの当事者から「自分はあなたみたいに、勇気がないのでオープンにできないなあ」なんていう反応をもらうたびに、そこに優劣があるように感じてしまい、居心地が悪くなります。
自分自身も映画やドラマの中のオープンなキャラクターに憧れていました。しかしその憧れは僕が無意識に抱えていた「クローゼットな自分は臆病者だ」というコンプレックスの裏返しだったのかもしれません。今なら「言えない」当事者ではなく「言わせない」社会に原因があるとわかるけれど、当時は自分の勇気の問題だと思っていました。
新しい言葉で、主導権を取り戻す
もちろん「カミングアウト」は、世間に自分の存在を可視化させる大事なアクションです。
しかし、僕たちはいつでもカミングアウトを選べるわけではありません。まだ準備ができていないとき、そこにあるリスクを許容できないとき、他者からのジャッジに負けてしまいそうなとき。そんな自分をちっぽけに感じてしまう瞬間にも、僕たちには「好きな人たちを自分の世界に招き入れる」パワーが残されています。そのことを「Inviteing In」という言葉が思い出させてくれました。
世間の偏見や差別にさらされて自分の大事なアイデンティティをなかなか公にできないという点では、これはLGBTQ+だけではなく、他のマイノリティ属性を持つ人たちを勇気づけ、彼らに人生の主導権を取り戻させるコンセプトだと思います。
マイノリティであることは、力がないことではありません。この先も僕たちの背中を押してくれる「新しい言葉」が生まれるといいなと思います。
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