“絶メシ”は、身近にもあるかもしれない
そのシーンをぼーっと観ていた僕は、ある夫婦が営む小さな居酒屋を思い出した。『絶メシロード』の1話で描かれた土地は、山梨県の富士吉田なのだが、実は僕も富士吉田に行ったことがある。そのとき地元の人に「一番ディープな店だよ」と教えてもらった馬モツ専門店がたいそううまかった。富士吉田は馬肉が有名な地域で、主人公が食べていた名物・吉田うどんに使われているお肉も、もちろん馬肉。とはいえ「馬のモツを食べられるなんてなあ」と物珍しく思いながら食べたのを覚えている。
帰り際、僕は店主に「おいしかったです。また来ます」と伝えた。それは決して社交辞令などではなく、本当にまた来たいと思ったからこその素直な気持ちだった。けれども今考えると、「また」があるのかどうか自信がない。そのお店は富士吉田で70年以上味を守りつづけてきた老舗だけど、跡継ぎがいなければあの味は途絶えてしまう。
僕は初めて、“いつか絶滅してしまうかもしれないメシ”が決して他人事ではないことに気づいた。料理は、やはり作り手がいなければ絶滅してしまう。それは地方の飲食店だけの問題ではなく、もっと身近にもある気がする。たとえば、「母の味」は母が亡くなってしまったら食べられなくなる。そういえば、下北沢で好きだったパン屋『アンゼリカ』は、僕が下北沢に引っ越した翌月に急遽閉店してしまった。あのパンを日常的に食べる生活を思い描いていたので、すごくショックだった。
僕は『絶メシロード』の主人公の食べっぷりがうらやましかったのだ。目の前にあるメシの「今しか食べられないかもしれない」という儚さに、想いを馳せながら食べるメシはさぞかしうまいだろう。仮に、本当に食べられなくなってしまったとしても、後悔は少ないのではとも思う。