友達の友達、知り合いの知り合いに、本当に起こった話
今泉力哉は「リアリティのライン」に非常に意識的な映画作家である。彼は間違いなくテン年代以降、最もコンスタントに新作を撮りつづけている監督のひとりだが、企画や題材の違い、オリジナルか原作ものかにかかわらず、彼の作品では常に「ありそうでなさそうな/なさそうでありそうな」出来事の連鎖と展開が描かれる。現実味と作り話ぽさをほとんど本能的な巧みさと大胆な誠実さによって自在に織り交ぜながら、今泉監督は「ありそうでなさそうな/なさそうでありそうな」話を語ってゆく。

しかしそれはストーリーテラー的ではない。確かに本作でもご都合主義的と思われても仕方のないような、だが映画ではよくあると言えばよくある、偶然や意外性が多用されている。これは監督と一緒にシナリオを書いた大橋裕之という稀代の物語作家の貢献も大いにあるだろうが、しかしそれでもいくつもの偶然は淡々と、意外性はなにげなしに、ふわりと街の上に舞い降りてくるのであって、そこには大袈裟なドラマチックさはほとんど感じられない。
つまりそれは映画というフィクションよりも現実世界の「リアリティのライン」の内側に──たとえどれほどありそうになく思えることでも時にはあり得るのだし、そのことを私たち自身が体験的によく知っている、という意味で──慎ましく留まっている。そう、友達の友達、知り合いの知り合いに、本当に起こった話、という感じなのだ。

否応なしに「偶然」の確率が高まる「下北沢」
実際、ネタバレを回避してぼやかして述べれば、この映画の最大の「偶然=意外性」は主人公が最初にフラれるその原因の部分にあるのだが、観客は頭のどこかでそれをうすうす察しつつも、ホントにそうだとわかったとき、いやコレはないわと一瞬思う、だがそのあとじわじわと、いやでもこういうことってあるのかも、と考えてしまう。そういうふうにできている。

それは演技や演出がうまいということだけではなく(もちろんそれもある)、要するに今泉監督自身が「こういうことって、あるよな」と本気で思っているということだと思う。確かに嘘の話なのだが、ぐるっと廻ってリアルに着地するというか、この世界のどこかで起きたことがあり、たぶん今もどこかで起きていて、これからだってきっと誰かの身に起きる、そういう話を自分らはしているのだと信じている、ということなのだと思う。
そういえば、この映画にはもうひとつ、最後まではっきりとは描かれない、精妙に隠された物語設定上の「偶然」がある(それは学生映画の衣装係の2番目の元カレに関わるものだ)。これもさっきのと同じくらいあり得そうにないが、考えてみると「偶然性が逆接的にリアリティを強化する」ということだけではない条件がこれらには作用している。それこそが「下北沢」である。小さいけれど賑やかな若者の街、そのゆるやかな閉域に舞台を限定することによって、否応なしに「偶然」の確率は高まることになるからだ。

行動範囲を同じくする他人同士は、本人たちも知らないうちに互いにつながっていることがあるし、それが突然露見することもある、これもまた「リアリティのライン」の範疇だ。
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