ニッポン放送で毎週金曜日に放送されている『三四郎のオールナイトニッポン』(以下、三四郎ANN)が4月から『三四郎のオールナイトニッポン0(ZERO)』になることが発表された。それに伴い、『霜降り明星のオールナイトニッポン0(ZERO)』が『霜降り明星のオールナイトニッポン』になり、1部を担当することとなった。2部→1部→2部の流れは、2015年のアルコ&ピース以来2度目の異例。同じ曜日のパーソナリティが枠を交代するというのは史上初のことだという。

これを「降格」と捉える人間もいるが、私はそうは思わない。ANNだろうがANN0だろうが、三四郎のラジオはおそらくいい意味で「何も変わらない」。いやむしろパワーアップするのではないかとさえ思う。
小宮浩信が「1部のプレッシャーからの解放、と考えてもよろしい。我々は深い時間が似合う」と言っているように降格などでなく、これはむしろ「凱旋」。一線で活躍したメジャーリーガーがより成長し、日本のプロ野球チームで活躍するように、三四郎もまた1部で得たものを2部でさらに爆発させてくれるに違いない。
オールナイトニッポン内の番組になんらかの変更がある場合、2部→1部になるか、1部→番組終了になるのが通常だが、そんな常識は三四郎には当てはまらない。そうまでしてニッポン放送が三四郎を手放さない理由、三四郎ANNの魅力とはなんなのか、紐解いていきたい。
失われた青春そのもの
三四郎ANN(ANN0)は、聴いたあとに何も残らない砂のようなラジオだ。オリジナルの虫だの、m-flo loves 小宮だの、どっちが編集長だ副編集長だの、カツカレー食べただのカツ丼食べただの、上弦の参はアディダスだの、どっからニャンちゅうでどっから江頭だの、ベンジョンカンシュンだのホンザヘンヘンホヘンだの、同じワード、同じ話題で何十分も平気で引っ張ることはザラ。回によっては震え上がるほどに中身がないこともある。
スペシャルウィークだろうが、なんだろうが関係ない。ネットニュースになる気配が1ミリもない。脱線に次ぐ脱線。電車だったらとっくに廃線。だが、それがいい。掴めない、残らないからこそ、そこに「おもしろかった」という感情だけがある。
放送後に「いったいこの2時間はなんだったんだ」と呆然となり気持ちがフワフワと浮遊するあのうたかたの夢のような気持ちよさ、これは三四郎ANNでしか味わうことのできない一種の劇薬にも近い中毒性がある。毎回毎回何がどうなるか、まったく予測がつかない、そんな三四郎ANNを聴いていると、理路整然、品行方正なラジオが物足りなくなってくる。精神がふたりの声なしでは保てなくなってくる。Creepy Nuts・DJ松永が言うところの「もっと……! もっとラジオくれよぅ……!」状態。ある意味では「最も他人に勧められない」ラジオとも言える。
どこまでもしつこくて、くだらなくて、不安定。それが三四郎ANN。この感覚は誰もが味わったことのある「あの時間」だ。以前、ラジオパークに展示されていたオールナイトニッポン50周年記念パネルに載っていた相田周二によるコピーが
オールナイトニッポンは、「相方」が「友達」に戻る時間。
だった。この言葉以上に三四郎ANNを表しているものはない。そう、このわちゃわちゃ感、作り込まれてない感は「友達との会話」のそれなのだ。中学校からの幼なじみで部活も同じグランドホッケー部のふたりだからこそ生まれる空気感はさながら学校の休み時間。そしてそこに集まってくるネタ職人たち。最初はふたりだけの会話だった小さな輪が、どんどん大きくなりリスナー全体を巻き込んでいく。まるでひとつの「クラス」のように笑いを共有していく特別感は、三四郎ANNの大きな魅力になっている。
「近所に別所哲也の実家がある」というメールが届けば、一瞬で別所哲也の実家が全国に大量発生するし、ネタコーナー「新・結婚できない男」(相田が阿部寛のモノマネをする)に届いた「おさるのジョージを全話観てる」というメールにふたりが盛り上がれば、コーナー中にもかかわらずおさるのジョージガチ勢から数多くの「ジョージ情報」が送られてくる。
1週間後には「なんであれで笑ってたんだ」と全員が流行ったことすら忘れてしまうくらいくだらない、刹那的な笑い。だが、その一瞬に笑い合える時間は何よりも素晴らしい。そう、三四郎ANNとは失われた青春なのかもしれない。青春には深い時間がよく似合う。4月からは不安定で、しつこくて、くだらないあの時間がさらにドープさを増すのかと思うと今からヨダレが止まらない。いつまでもバチボコにつづいてほしい。
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