同性愛というテーマも自然と社会性を帯びていく『his』
一方、井川迅(宮沢氷魚)と日比野渚(藤原季節)という、8年前に別れたゲイのカップルが突然再開することから物語が動き出す『his』は、その始まりからして象徴的だ。
なぜなら、かつて別れた渚が、今は田舎に住む迅のもとを訪れるとき、その傍らには渚の娘・空(外村紗玖良)がいるからである。
渚は一児の父となっていた。迅にとっては、いきなり現れたかつての恋人と、初めて会う彼の娘だ。その戸惑いから、映画はスタートする。
そもそも、ふたりだけの再会ではない。そこには必ず、他の誰かがいる。
『his』ではさらに、渚と離婚調停中である妻が出てきて、後半では今泉映画初の法廷シーンまで描かれる。
田舎の社会で、あるいは法の判断において、迅、渚、空という3人の暮らしは理解されるのか。同性愛であるから、ではなく、同性愛というテーマもまた、他の今泉映画と同じように自然と社会性を帯びていく。
今泉監督の映画の「恋愛」は、ふたりだけのものではない
ここでふと、今泉監督の「恋愛映画」は、そもそもの発想が、狭義の「恋愛」とは違うのではないか、と思い至る。
実は、こう考えるべきなのではないだろうか。
恋愛は、ふたりでするものではない――。
もっと複雑な、この世界の関係性の中に投げ込まれながら、人は誰かを想うものであって、その広がりゆく枝葉こそが大切に描かれているのではないか、と。
私たちが恋をするとき、たとえどれだけその想いが強くとも、当たり前だが第三者も、そして世界も消え去ってはいないのだから。
「誰かと出会って影響を受けるのは人生の醍醐味やでな」とは、『his』に出てくる猟師の緒方(鈴木慶一)の弁だ。
驚くことに、迅と渚と空、そして緒方と飼い犬が連れ立って散歩するというシンプルなショットで、『his』という映画はフッと肩の力を抜く。同性愛と社会を描くとき、ともすれば映画世界はこわばることもあろうが、誰かと一緒に歩くというシーンが、作品を深呼吸させているのだ。
『mellow』では、ラーメン屋から中学生女子3人がひとりずつ、バラ1輪を手に持ち、暖簾(のれん)をくぐって外に出てくるシーンがある。
物語も後半なのに、彼女たちはまるでこのシーンで初めて登場したのかと思うほどキラキラとしていて、新鮮さと軽やかさを身にまといながら、スクリーンを横切っていく。彼女たちもまた、異なる者同士が隣り合う、彩り豊かな花束のようだ。
今泉監督の映画の「恋愛」はやっぱり、ふたりだけのものではない。私たちはもしかしたら、そんな世界の豊かさに、恋をしているのではないだろうか。