銅像はなぜ迫害されるのか。軍人→裸女→空白。「台座の交代劇」から考察する日本人の特殊な銅像観

2020.7.25


日本の銅像たちの数奇な運命

翻って日本では、過去を遡っても、こうした実力行使による銅像の撤去や破壊は案外少ない。私が調べた限り、古いところでは、1905年の日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)締結に際し、神戸の湊川神社にその前年に建てられた初代首相・伊藤博文の銅像が引き倒されるという事件があった。このとき、条約の不平等な内容に抗議する民衆が暴徒化し、伊藤像を倒すと、市中引き回しにしたという(平瀬礼太『銅像受難の近代』吉川弘文館)。なお、伊藤はこのときまだ存命であった。それ以外のケースとなると、さらに時代を下って全国で大学紛争が頻発した1960年代末、いくつかの大学の構内で銅像が破壊されたケースが見つかるぐらいである。

『銅像受難の近代』平瀬礼太/吉川弘文館
『銅像受難の近代』平瀬礼太/吉川弘文館

1968年には、東京大学の安田講堂前に学外のフーテン族ら100名ほどが乱入し、ひとしきり騒いだあと、元総長の濱尾新の銅像に白ペンキを浴びせ、その首をノコギリで切断しようとするも失敗に終わる。また、京都の立命館大学では1969年、戦没学生をモチーフにした「わだつみの像」が一部の学生によって引き倒された(翌年再建)。東大の一件は、大学紛争の騒ぎに乗じて部外者が起こしたもので、政治的な意味合いは薄い。立命館大の「わだつみの像」破壊にしても、このころ学生運動の主力を担った全共闘の中でも、ほとんどの学生が知らないうちに実行されたというのが実状らしい(『立命館史資料センター』2017年1月10日配信)。いずれにせよ、これらの銅像破壊は、日本においては極めて例外的なケースと言える。

ただ、日本でも戦前から敗戦後にかけて、民衆が引き倒したというのではないが、銅像が撤去された時期があった。戦時中には武器生産に転用するための金属供出により、戦後は軍国主義の否定により軍人などの銅像の撤去が相次いだ。

前者の例としては、名古屋の鶴舞公園にかつてあった大正時代末の首相・加藤高明の銅像が挙げられる。加藤は地元の愛知県出身で、首相在任中には普通選挙法を成立させた。銅像は加藤の亡くなった2年後、普通選挙が初めて実施された1928年に「普選記念壇」と名づけられた屋外ステージと共に公園に寄贈されている。しかし銅像は戦時中の1944年に供出のため撤去され、現在は台座だけが残る。

名古屋市鶴舞公園に残る加藤高明像台座(撮影/近藤正高)
名古屋市鶴舞公園に残る加藤高明像台座(写真=近藤正高)

戦時中に供出された銅像には、戦後になって再建されたものもある。横浜の井伊直弼像、東京の講道館の嘉納治五郎像、あるいは渋谷駅前の忠犬ハチ公像などがこれに当たる。しかし加藤高明像はついに再建されないまま現在に至っている。ここには、加藤が普通選挙法と同時に、戦前において思想弾圧の手段として濫用された治安維持法を成立させたことへの考慮もあるのではないか。ただ、残された台座はかなりの高さがあり、銅像が失われた今も記念碑として存在感を示している。

一方、敗戦後に台座もろとも撤去されたものには、国鉄(現・JR)の万世橋駅(1943年に廃駅)前に建っていた広瀬武夫・杉野孫七像などがある。広瀬は海軍少佐として日露戦争の旅順港閉塞作戦に参加したが、乗っていた船が敵の魚雷と自爆により沈むなか、行方不明となった上等兵曹の杉野を捜していたところ敵弾に倒れた。死後、中佐に昇格された広瀬は「軍神」として崇められることになる。銅像は彼の最期を美談として後世に顕彰するべく1910年に建てられ、戦前において東京で最も有名な銅像のひとつとなった。

広瀬・杉野像の撤去は、東京都が「忠霊塔、忠魂碑等の撤去審査委員会」の審査を経て行った。このときの審査で撤去が決まった軍国主義に関する銅像等は8件あったが、いずれも日露戦争に関するものだった。

GHQの思惑と銅像

敗戦後のこうした動きにはもちろん、日本の占領政策を担ったGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の意向が働いていた。GHQは銅像をはじめ戦争記念碑や慰霊碑の処置を決めるにあたり、日本の知識人にも意見を聞くなどして報告書をまとめている。ただ、その結論は以下に要約されるように、強制というよりは、あくまで日本人の自主性に任せるというニュアンスが強かった。

 戦争記念碑の意味は日本人にとって大きくないが、記念碑によって異なり、時代の政治的雰囲気との関係で解釈される(軍国時代なら軍国的解釈)。記念碑は移動させるべきであるが、選択に十分な配慮が必要で、明白な軍の記念碑は移すべきだが他は残すべき。移動した空白を平和的シンボルで埋めるべき。移動させる主体については占領軍による行動が最も望ましくなく、日本人自身で行うべきという傾向がむしろ強い。記念碑の望ましくない効果を減らすには教育が最適だが、表層をなぞるのではなく、日本の政治的環境と伝統的思考様式を変えることが重要で、それが変化すれば記念碑の問題はそれ程重要ではない

『彫刻と戦争の近代』平瀬礼太/吉川弘文館
『彫刻と戦争の近代』平瀬礼太/吉川弘文館
『彫刻と戦争の近代』平瀬礼太/吉川弘文館

日本政府はGHQの意向を受け、1946年11月に、内務文部次官通牒「公葬等について」を地方長官(現在の知事)に通達した。これは政教分離の見地から、地方公共団体や公の機関が戦没者の公葬について宗教的儀式・行事を行うことを全面的に禁止すると共に、戦没者のほか軍国主義者・国家主義者のための記念碑や銅像なども建設しないこと、建設中の物はただちに中止するよう発したものだった。だが、この通達を受けた東京都では、先のとおり撤去は8件に留まり、これに対し、上野公園の西郷隆盛像、皇居前広場の楠木正成像、靖国神社の大村益次郎像、あるいは旧近衛歩兵第1・第2連隊正門前の北白川宮能久親王像のような皇族関係の銅像などは審査対象に挙げられながらも結局、存置が決まった。これら銅像は美術品としての価値を認めて、そのままになったという。戦後、日本から軍国主義を徹底して排除しようとしたGHQだが、どうも銅像に関してはさほど力が及ばなかったようである。

戦後の銅像をめぐるエピソードとしては、こんな話も残っている。それは明治~大正時代の元帥・陸軍大将で、首相も務めた寺内正毅の銅像に関するものだ。寺内正毅像は1923年に東京・三宅坂に建てられたが、これも先述の加藤高明像と同じく戦中の金属供出により、台座だけ残して撤去された。戦争が終わって6年後、主人が不在となっていた台座に新たな銅像が現れる。それは軍人とは対極にあるともいうべき3人の裸女の像であった。建設したのは日本電報通信社、現在の電通である。『平和の群像』と題されたこの3人の裸女はそれぞれ愛情・理知・平和を表現しているという。戦後、日本のあちこちに平和のシンボルとして裸の女性像が建てられることになるが、この銅像はその嚆矢(こうし)であった。

『あいちトリエンナーレ2019』で再現された台座


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近藤正高

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