2.健助とフォビアの多層構造
つづいては読者にとってはおなじみの、あの(増尾)健助宅での「謝罪っつーか相談」のエピソードだ。
この場面では、成り行き上アウティング(他者による本人の意図しないカミングアウト)をされてしまったトーマについて、主人公・太一を含むトーマ以外の同級生が集まって話し合う。トーマのセクシャリティを受け入れられないという健助と、それを詰問するサヤ&祥子の応酬を軸に対話が進んでいくのだが、その議題の掘り下げが徹底的なのだ。
ホモフォビアが強い健助に対して、サヤ(望月彩香)と蓮田祥子は「嫌い」というのは理解の放棄であり、理解しようとしない健助に非があるとして激しく叱責する。このほか、「完全に理解できることはない」「個人の意思で選択できないことを排他の材料にすべきではない」「自分との違いを“正そう”とする行いの傲慢さ」など、サヤと祥子の主張はクィア・スタディーズ的な受容の要点を押さえている。しかも、それらの主張はギャルい言い回しで脚色され、クローブやオレガノで肉の臭み消しをするように説教臭さが打ち消されているので、こういった分野の知識の素地がない人にも自然に入ってくるだろう。
ここまででも社会の現状と照らし合わせれば十二分に進歩的なのだが、ここで終わらないのが本作の白眉だ。静観していた仁井村津吾によるサヤ&祥子への「お前たちがしていることは健助がしたことと一緒」という指摘で議論はさらに先へ進む。
どういうことかというと、健助が抱く嫌悪感を頭ごなしに否定し、理解への道筋を併走せずに突き放すのもまた“理解の放棄”であるということだ。こうした議論は堂々巡りになりかねない、取り回しが非常に非常に難しいものだ。『私たちにはことばが必要だ』(タバブックス)の中で著者のイ・ミンギョンは、対峙した相手に理解を促すためにはとにかく説明を諦めないことだと説く一方で、誰もが傷つき疲弊することから自身を守るために“説明しない権利”を持っていることもまた繰り返し強調している。
無理解を呈している(という構図で捉えられる)側が学び改める意思を持っているのか、またはその余地のないヘイターであるかは判断できない。実際作中でも、この議論は歩み寄りというよりも双方痛み分け、あるいは津吾がディベートのうまさで場を制した感が否めない、“論破”的な印象で幕引きとなっている。
ただ、議論をより先に進めたという点では、ディズニー映画『ズートピア』が単に強者による抑圧の打破で話を終わらせず、弱者の特権性による暴走まで突っ込んで描き切っていた点を想起させられた。
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