2022年アニメ映画総括『かがみの孤城』『すずめの戸締まり』『犬王』『THE FIRST SLAM DUNK』は「石」か「大波」か(藤津亮太)
アニメ評論家・藤津亮太が2022年のアニメ映画を振り返る。キーワードは「大波のような映画」と「石のような映画」。激しいアクション、キャラクターの感情といった魅力の横溢する「大波のような映画」が趨勢であるように見えるが、確実に「石のような映画」が増えつつある。たとえば『かがみの孤城』のような……。進化しつづけるアニメ表現を考察。
目次
期待されている「大波のような映画」
「大波のような映画があり、石のような映画がある。石のような映画をつくったのは、たぶん小津とブレッソンだ。一方、大波のように映画をうねらせるのはスピルバーグだ。セルジオ・レオーネだ。ベルトリッチだ。」
映画評論家の畑中佳樹は著書『夢のあとで映画が始まる』の中でこんなふうに記している。多分に感覚的な言葉ではあるのだけれど、だからこそ実感に訴えてくる部分がある。
2022年のアニメ映画を振り返ると当然ながら「大波のような映画」が注目を集めた年だった。筆頭はいうまでもなく『ONE PIECE FILM RED』で、ほかにも『呪術廻戦0』から始まり、『名探偵コナン ハロウィンの花嫁』『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』などが並び、2022年のアニメ映画の興行収入は過去最高になるだろうと予想されている。激しいアクションとそれを追うカメラ。露わになるキャラクターの感情。「大波のような映画」であることは、「今、アニメ映画に期待されていること」の何割かを確実に占めている。
そもそも、映画は広い意味で“見世物”としてスタートしている媒体だ。だから、テレビ放送や配信などとの差異化を考えざるを得ない今、「大波のような映画」を志向するのはある意味自然であり、“攻め手”としては、いい意味で保守的といってもいいアプローチといえる。ただ保守的だからこそ、正攻法──じゅうぶんな予算と制作期間、スタッフなど──でないと攻めき切れないアプローチでもある。一方、邦画実写で「大波のような映画」は限られているから、結果としてアニメ映画が興行的に強くなるということが起きているわけだ。
『かがみの孤城』は「石のような映画」
今回は、こんなビジネス的な話をしたいわけではない。気になっているのは「大波のような映画」が増える必然性ではなく、「石のような映画」についてだ。
たとえば年末に公開された『かがみの孤城』は、間違いなく「石のような映画」であった。
本作は、学校に行きづらくなった中学生たちが、鏡を抜けた先にある「城」で出会い、時間を重ねていくという物語だ。だから「かがみの孤城」というわけだ。しかし、このタイトルが画面に映し出される時、タイトルが重なる画面には城は映っていない。では、なにが映っているかというと、学校によくあるあの机と椅子なのだ。しかも、その机と椅子の背景は真っ黒でなにも描かれていない。
孤城とは「ぽつんと建っている城」という意味だが、同時に「敵に囲まれて、孤立している城」という意味も持っている。学校に居づらい登場人物たちにとって、教室の中の座席こそ「孤城」なのだ。タイトルが被さるこのカットは、そのことを静かに端的に伝えている。
また『かがみの孤城』は、登場人物たちの会話シーンが多い。会話中のカメラの切り返しの間には、しばしば登場人物の顔を真横から捉えたカットが登場する。もちろん大事なセリフを言うところ、聞くところでは正面寄りのアップが入るのだが、そうでないところで入るこの横顔のために、登場人物と観客の間にほどよい距離感が生まれている。映画は主人公・安西こころの行動を中心に追っていくように組み立てられているが、同時に、観客を彼女の感情の荒波に無理やり巻き込もうともしていない。むしろ一番近い場所で彼女を見守ってほしい、とでもいいたげな距離感が演出されているのだ。
こうした静かで、必要以上のことをしない語り口で構成された『かがみの孤城』は、まさに「石のような映画」だった。
ほかにも2022年の映画では『夏へのトンネル、さよならの出口』や『グッバイ、ドン・グリーズ!』が「石のような映画」だった。抑制された語り口。説明し過ぎない、どこか静かな印象。そしてそこにしずかに立ち込める叙情。
「大波のような映画」で始まる『すずめの戸締まり』だが
では『すずめの戸締まり』は、この「大波のような」「石のような」という二分法で考えるとどのような映画になるだろうか。
『すずめの戸締まり』が「大波のような映画」で始まっているのは間違いない。前半は震災をもたらす“みみず”のスペクタクルとそれを止めるアクションが、緊張とその緩和を映画にもたらして観客を牽引している。
しかし、物語の折り返し点を過ぎて、主人公のすずめ(岩戸鈴芽)が、東北の生まれ故郷を目指していく過程に入ると、画面からさまざまな要素やすずめ自身のセリフもぐっと減る。「石のような映画」そのものというわけではないが、かなりそこに接近した語り口になってくる。もちろんもちろんクライマックスには、派手なビジュアルと感情の盛り上がりが用意されており、「大波」のように観客を揺さぶるのだが、そのクライマックスが起きる場所まで“降りていく”過程は、観客の想像以上に静かに、ひたひたと進んでいく。
この「石のような映画」に接近する語り口は、新海誠作品の中でも珍しい。そもそもプロデビュー作である『ほしのこえ』を振り返ってみると、これは「石のような題材を、大波のように撮った作品」だった。小さな小さな物語を、登場人物の感情のヒダにぐっと寄り添い、モノローグで語らせることで、観客を感情の大波に巻き込んだのだ。そのために美しい光に彩られた劇的な背景が大きな役割を果たした。
この「石のような題材を、大波のように撮る」は、新海監督のひとつのトレードマークとなり、そしてさまざまな変化を経て、『君の名は。』ではついに「大波のような題材を大波のように撮る」ということに成功した。こんなふうに、新海監督のフィルモグラフィーを概観することは可能だろう。
だから『すずめの戸締まり』で「石のような映画」の語り口が垣間見えたことは、今後の新海監督がどんな作品を作っていくかを考える上で、興味深い要素ではあった。これまでの新海作品で一番、「石のような」映画に近かったのは『言の葉の庭』だろう。もちろん「石のような映画」そのものではないけれど、小さな“雨宿り”の物語を、静かな語り口で落ち着いて見せている。そのぶん、東屋の柱やマンションの階段といったごく普通の空間を使って、ドラマを語る演出が充実している。
『すずめの戸締まり』で「不条理な天災」という題材にひと区切りをつけた新海監督が、今後どんな方向に進むのか。『すずめの戸締まり』の後半に、その新たな方向が隠れているような気もするのである。
『ほしのこえ』と正反対『チェンソーマン』
「石のような題材を、大波のように撮った」のが『ほしのこえ』ならば、その正反対の方向を目指しているのが、2022年を代表するテレビアニメ『チェンソーマン』ではないだろうか。アニメ『チェンソーマン』は、「大波のような題材を、石のように撮ろうとしている」作品だと考えると、作品の肌触りがとても合点がいく。
テレビアニメは映画よりも間口の広いポピュラリティーが求められるから、「石のような作品」はあまりない。あってもシリーズの中の特別なエピソードだけが「石のような作品」の語り口をしているということも多い(たとえば『涼宮ハルヒの憂鬱』の「サムデイ イン ザ レイン」とか)。最近では『Sonny Boy -サニーボーイ-』が、シリーズを通じて「石のような語り口」で統一されていたが、これはとても稀なケースだ。
アニメ『チェンソーマン』はおそらく、原作の独特の語り口(コマ割り、白い背景の使い方、セリフやアクションの間の取り方など)を、映像に変換する方法として、「石のような作品」としてアプローチをしたのだろう。だから激しく吹き出す血も、その語り口によってどこか冷たく感じられる。むしろ、第12話ラストで早川アキが、虚空に吐き出すタバコの煙の消えゆく様などにこそ、アニメ『チェンソーマン』の味が込められているのだ。それはどこか1990年代後半の単館映画を思わせる雰囲気でもある。
これがテレビというメディアと、相性がいいかというと決してそうではないと思う。おそらくある程度の長さのエピソードを連続で見ると、この「石のような語り口」がもっと実感を持って迫ってきて、“腑に落ちる”感じになるのではないだろうか。
『犬王』と『THE FIRST SLAM DUNK』の近い語り口
また「大波のような」「石のような」という二分法でいくと、『犬王』と『THE FIRST SLAM DUNK』はとても近い語り口をしていることがわかる。
『犬王』は、猿楽を扱っているので“ライブシーン”も多く、音楽映画という側面がある。どう考えても「大波のような映画」である。『THE FIRST SLAM DUNK』のほうは、原作のクライマックスである湘北と山王の試合を正面から描く内容で、この試合シーンがまさに「大波のような映画」として観客に迫ってくる。
しかしおもしろいのは、その間に入るドラマ・パートの見せ方なのだ。おそらくは「大波のような」部分との対比ということもあるだろうが、両作とも、ドラマについてはとてもシンプルな演出で、複雑なことをせずに端的に事実を語っていく。
たとえば『犬王』の、将軍の命令に表面だけ笑って見せる犬王の葛藤は、1カットだけあるうつむいた怒りの形相と、面を上げた時のまったく違う笑顔という一瞬の落差だけで、深く鋭く表現される。『THE FIRST SLAM DUNK』でいうなら、ドラマの主軸をなす主人公である宮城リョータの母との関係性は、言葉も動きも少ない中で点描されており、こちらもドラマは“間”の中に託されている。
つまり『犬王』と『THE FIRST SLAM DUNK』は、どちらも華の部分は大胆に「大波のように」語るが、伝えたいドラマの部分は「石のように」語っている作品ということができる。「大波に揺さぶられた」と観客が感じるエモーションの何割かは、実は「石のように語られた」感情によって支えられているのである。
畑中は前掲書の中でこうも書いている。
「これは多くの人がすでに感じていることだろうが、映画というものには二つの心臓があるのだ。二つの真実が同時に真でありうるのが映画なのだ。(略)映画には唯一の名前は存在しない。必ず二つの相反する極が、でありながら両方とも愛さずにはいられないような二つの心が、動脈と静脈のように映画史を脈動させている」。
これはアニメも同じだ。「大波のようなアニメ」があり「石のようなアニメ」がある。それを共に抱えたアニメもある。そうやってアニメは、自らの表現し得る範囲を拡張してきた。これまでもこれからも。
そんなアニメの「現状報告」として、2022年のアニメ・シーンはとてもクッキリとした印象を与える年だった。
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