アニメ作品を軸に社会現象を読み解く「藤津亮太のクイックジャーナル」では「宗教とアニメ」をテーマに、『輪るピングドラム』『銀河英雄伝説』『機動戦士Vガンダム』をピックアップ、現実と不可分の命題を考察する。
架空の宗教団体が登場する作品をピックアップ
宗教が登場するアニメは多い。
まず、伝統宗教から新新宗教、カルトに至るまで、宗教団体が宣伝のためにアニメを作ることは珍しくない。また“いわゆる中世風”のファンタジー作品にも架空の信仰が出てくる場合があるし、ハルマゲドンといった宗教的モチーフを扱った『幻魔大戦』のような作品もある。
変わったところでは百年戦争の時代のフランスを舞台にした『純潔のマリア』。本作には、アニメオリジナルキャラクターとして敬虔で頭脳明晰な修道院長ベルナールが登場する。彼の明晰な頭脳は、主人公である魔女マリアと対話を経た結果、皮肉にも「神を必要としない信仰のあり方」という“異端”に到達してしまうのであった。
逆に、地球文明が滅んだ遠未来を舞台にしたアニメ映画『GODZILLA』シリーズでは、異星人エクシフ(オリジナルの『ゴジラ』シリーズにおけるX星人がベース)が登場。エクシフは大神官メトフィエスを中心とする教団を組織しており、彼らの教義の中心にある「自己犠牲の献身による魂の救済」は物語の終盤で大きな意味を持ってくる。
このように宗教はさまざまな切り口でアニメの中に登場しているが、今回はその中から、架空の宗教団体が登場する作品を3つピックアップし、それらが「世俗」の社会や権力とどう関連しているかを並べてみた。
『輪るピングドラム』ピングフォース
まずひとつは2011年に放送された『輪るピングドラム』。同作は現在、テレビシリーズに新作を加えた劇場版『RE:cycle of the PENGUINDRUM』の後編「僕は君を愛してる」が上映中だ。
【予告篇】輪るピングドラム 劇場版 RE:cycle of the PENGUINDRUM 後編【7月22日(金)公開】
同作は2011年が舞台だが、メインキャラクターが生まれた16年前の1995年に地下鉄テロ事件が起きているという設定がある。この現実の事件を想起させるようなテロを起こした団体がピングフォースである。
ピングフォースは、作中で明確に宗教団体として描かれているわけではない。しかし組織構成員だけでなく、その子供も組織の一員として共同生活をしていると思しき描写があるなど、政治結社というよりも宗教団体に近く描かれている。
これはテロ前日、団体幹部の高倉剣山(主人公たちの父親でもある)がメンバーに対して語る演説からも感じ取れることだ。
「この世界は間違えている」と始まった演説は「この世界は、そんなつまらない『きっと何者にもなれないやつ』が支配している」と世俗の問題点を糾弾し、「我々の手には希望のたいまつが燃えている。これは聖なる炎、明日我々は、この炎によって世界を浄化する」とテロの意義を語る。
権力を奪取する闘争でもなく、政治的権威を傷つけるテロでもなく、「世界の浄化」を願うこと。世俗の世界を、宗教の持つ“聖性”で塗り替えようという宗教的思想に基づいたテロだったことが窺える。
当時、ピングフォースのリーダーだった(と自称する)渡瀬眞悧は別のところで「世界はいくつもの箱であり、人間はその中で自分が何者かを忘れてしまう。だからこの世界を壊すのだ」という趣旨のことを語っている。眞悧のいう「世界の破壊」を剣山が「世界の浄化」と語るのは、意識的な言い換えなのか、それとも無意識の正当化なのか。
本編のストーリーは、そのテロから16年後に、剣山と妻の千江美の(血のつながらない)3兄妹が、テロリストの子供であるという“呪い”といかに向かい合うかを巡って進む。そのとき、剣山たちの思想が正しいのか間違っていたのかは問われない。だが彼らのテロ行為の結果、子供たちは“呪い”という「箱」の中に閉じ込められたのである。そして、彼らが「箱」から出るためには、剣山の語る「聖なる炎」ではない別の炎──(『銀河鉄道の夜』から引用された)自己犠牲のサソリの火──こそが必要だったのだ。
では「聖なる炎」と「サソリの火」を分けるものは何なのか。宗教という観点から本作を見ると、この部分にこそ一番重要な問いかけが潜んでいるように思われる。
『銀河英雄伝説』地球教
ふたつめは田中芳樹の小説『銀河英雄伝説』──同作は1988年からのOVAシリーズが制作され、2018年からは再アニメ化された『銀河英雄伝説 Die Neue These』が進行中だ──に登場する、地球教である。
本作は、人類が銀河に進出した遠未来を舞台に、銀河帝国と自由惑星同盟、フェザーン自治領の3勢力が銀河の覇権を巡って繰り広げる戦争と政争などを描くSF歴史小説だ。
この時代、人類の発生の地である地球は、帝国領内にあるものの、もう顧みられることがなくなっている。地球教徒は「地球を聖なるもの」と考える信仰を持っており、最高権力者である総大主教は、帝国と同盟を徹底的に争わせ、社会が混沌としたそこで、地球教の信仰をもって人心を掌握する、というプランを持っていた。こうして社会のさまざまな場所に入り込んだ地球教徒を使い、帝国や同盟の要人暗殺などを計画して、政治状況を自らに有利なほうに誘導しようとする。
物語の中において地球教は、帝国と同盟の対立という大枠の流れに対し、予想外のアクシデントをもたらすファクターとして扱われている。決して物語の中心的存在ではない。そのため、地球教の動きだけを見ると、その宿願の大きさに比して、政治勢力へのアプローチがいささか拙いように見えるところがある。
彼らは地球を尊ぶ信仰を自分のものとだけしている。しかし宗教において最大の武器は、その思想なのだ。それは洋の東西を問わず、試みられてきたことだ。この思想を広く受け入れさせ、信徒にしなくともシンパを作ることが、世俗の権力を絡め取る最短距離の方法だったのだ。そして思想のシンパを増やすには、ダイレクトに思想を布教するのではなく、「聖なる地球」という思想を土台にした上で、より「世俗的な反帝国」あるいは「反同盟」という政治思想をどちらかの政治家や市民に訴えるべきだった。
どうして地球教徒がそのような戦略を取らなかったかを考えるとき、地球教におけるNo.2のド・ヴィリエが、信仰への意識が低く、むしろ政治力や権謀術数に長けていることで出世した人物だったことが理由として想像できる。ド・ヴィリエ自身がかなり世俗的な人間だったがために、自分たちの最大の武器が「思想」であることを見失わせ、底の浅い陰謀を巡らす道を進んでしまったのではないか。もちろんそれは銀河帝国にとっても、自由惑星同盟にとっても幸運なことではあったのだけれど。
『機動戦士Vガンダム』マリア主義
そして最後に取り上げるのは、1993年に放送された『機動戦士Vガンダム』に登場するマリア主義だ。
『Vガンダム』で主人公ウッソ・エヴィンたちが立ち向かうのは、スペースコロニー・サイド2で建国されたザンスカール帝国である。このザンスカール帝国の政権を握るのが、マリア主義という宗教をバックボーンに持つ宗教政党のガチ党である。
マリア主義を唱えるのは、ザンスカール帝国の女王──しかし政治権力は持たない──と位置づけられた女性マリア・ピァ・アーモニアである。
小説版によると、マリアはサイド1で、時に売春などをしながら弟クロノクルとふたりきりの貧しい生活を送っていた。彼女は父親のわからぬ娘(本作のヒロインであるシャクティ)を妊娠したころ、自分に霊視や病気の治癒能力が宿っていることに気づく。そんな彼女の周囲に人が集まり始め、宗教団体も設立される。そこに接触してきたのが、木星帰りで戦乱の絶えない地球圏の情勢に失望したフォンセ・カガチであった。
カガチはマリアの教団ごとサイド2へと本拠を移し、マリア主義を背景にガチ党を立ち上げる。そして最終的にサイド2の政治を担うようになり、ザンスカール帝国を名乗るようになったのだ。
マリア主義とガチ党の関係がよくわかるのが第26話「マリアとウッソ」だ。
ここではまず、マリアによる「恩寵の儀式」が描かれる。これはバルコニーに立ったマリアが、広場を埋める信者たちに対し“恵み”を施すという儀式だ。マリアがバルコニーから“エネルギー”を放出すると、ケガ人の中から、急に目が見えるようになったり、車いすから立ち上がる人物が現れる。
マリアは本当にヒーリングの能力を持っているのか。小説ではこの「恩寵の儀式」について、レーザー光線を使った照明演出などによって、一種のマスヒステリーを起こしているのだと説明している。しかもケガ人の中には、雇われた劇団員によるサクラも混ざっているというのだ。しかし、こうした仕掛けによって生み出された熱気や陶酔にあてられたことにより、健康状態が改善したと感じてしまう人間もかなりいるとも記している。アニメ本編では、その場に居合わせた登場人物が「こんなのお芝居よ」と自分に言い聞かせるようにつぶやく描写がある。
そして「恩寵の儀式」が終わると、今度はカガチが前面に出て、ギロチンによる反乱分子などの処刑を行うのだ。もともとガチ党がサイド2の民衆の支持を得たのは、汚職関係者をギロチンで公開処刑にするという過激な手段を選んだからであった。
つまりガチ党は、癒やしの「母性」という宗教的聖性と善悪を裁く「父性」という世俗権力というふたつの顔が、野合した組織なのである。カガチはマリアとマリア主義を利用しているだけだし、マリアはカガチの政治姿勢を歓迎しているわけではない。
こうして政治と宗教が野合した組織が、地球の人類を退化・幼児化させ、眠りのまま衰弱死させる精神兵器エンジェル・ハイロゥを最終的な切り札として稼働させるのである。これは、巨大な母性によって多数の人類を安楽死させてしまおうという作戦とも解釈できる。
宗教は心の中だけで完結するわけではない
3つの作品に登場する宗教は、世俗の権力に対し「浄化という名の闘争」「影からのコントロール」「野合」というそれぞれの形で接していた。
宗教は精神の問題であるが、心の中だけで完結するわけではない。必ずどこかで世俗との関係性が生まれてくる。そのとき、そこにどのような関係性が生まれるのか。そこに落とし穴はないのか。この3作品はそうしたことを考えるためのサンプルでもあると思う。
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