忘れるな。オウム真理教による無差別テロという忌むべき“物語”に立ち向かう小説『曼陀羅華X』(豊崎由美)

2022.4.6
豊崎サムネ

文=豊崎由美 編集=アライユキコ


ウクライナ出身の作家の小説を紹介することも考えた。だが、日本において「忘却にあらがう小説」を紹介することが書評家の急務ではないか。書評家・豊崎由美は、重要な事実を「忘れない作家」古川日出男『曼陀羅華X』のメッセージを伝えたい。

忘れない作家の忘却にあらがう小説を

音楽にイントロは必要じゃない。主人公は早く出せ。物語は即刻動かせ。目の前にあることに飛びつけ。すぐに反応しろ。前を向け。動け。振り返るな。
そんな闇雲に急かされる時代に生きているのだなあと最近強く思うんです。や、自分はそういう風潮にあらがっていると言いたいわけじゃありません。わたしだって同じ穴のムジナです。

ロシアに侵攻されているウクライナの映像に見入っている時に覚えるうしろめたさ。最近あった大きめの地震の際、倒れそうな大型テレビを押さえながら襲われるうしろめたさ。わたしはクリミア半島のことを、ミャンマーのことを忘れていた。阪神・淡路大震災のことを、東日本大震災のことを忘れていた。
過去にあったすべてのことを忘れないで今を生きるなんてほとんど不可能だから、仕方ないといえば仕方ないんですけど、忘れていた自分をうしろめたく思う気持ちくらいは持っていたい。だから、今回の原稿も当初は時宜にかなったウクライナ出身の作家の小説を紹介しようとも思ってたんですが、やめました。忘れない作家の忘却にあらがう小説を取り上げることにします。

古川日出男の『曼陀羅華X』(新潮社)。

『曼陀羅華X』古川日出男/新潮社
『曼陀羅華X』古川日出男/新潮社

2020年の7月23日から8月10日まで、福島第一原発がある浜通りと出身地の郡山がある中通り、原発事故の影響が及んだ宮城県南部まで360kmを歩き、被災地の人々の声と思いに耳と心を傾け、日本の過去と未来についての思索を深めたルポルタージュ『ゼロエフ』(講談社)を2021年に上梓した古川さんは、これまでの作品を読んでいただければわかるのですが、過去に起きた出来事に拘泥し続ける小説家なんです。なので、『曼陀羅華X』を紹介する前に、その一例として『本の雑誌』に寄稿した『南無ロックンロール二十一部経』(河出書房新社/2013年)の書評を転載します。
(すでにこの小説を読んでいる方や、『曼陀羅華X』のことだけ知りたい方は飛ばしていただいてけっこうです)。

メガトン級の“世界文学”『南無ロックンロール二十一部経』


古川日出男の1000枚の大作『南無ロックンロール二十一部経』は、震災と人災がともに起きた1995年を、やはり震災と人災がともに起きた2011年3月11日以降の世界で語り直した、スケールにおいても内容においても方法論においても、メガトン級の“世界文学”なのである。構成自体は「第一の書」から「第七の書」までの中に、それぞれ「コーマW」「浄土前夜」「二十世紀」と題した3つの物語を内包して、シンプルでわかりやすい。でも、そのスッキリした構造のもと、それぞれに異なる語りの中で展開する物語は混沌としているのだ。

小説家の〈私〉が、昏睡状態にある女性を見舞って〈ロックンロールの物語〉を話し続ける「コーマW」。前世は『ロックンロール七部作』を書いた小説家だった〈僕〉が、白ホグレンの鶏→アムール虎→狐→馬頭人身→少女→七十七歳の老人へと転生していく「浄土前夜」。六つの大陸とひとつの亜大陸、日本に蔓延していくロックンロールの物語を、小さな太陽と呼ばれた人物、食べる秘史列車、武闘派の皇子と呼ばれた人物、ディンゴと呼ばれた人物、その名が幾度もアップデートされていく一セントと呼ばれた男たち、牛の女と呼ばれた人物、「日出男」のパラフレーズであるところの昇る太陽と呼ばれた人物らの時空を超えて自在に飛躍するエピソードで描き、旧作『ロックンロール七部作』(2005年 集英社)を想起させる「二十世紀」。
 
昏睡している女性はなにゆえそんな状態にあり、彼女と〈私〉はどんな関係にあるのか。転生する者の目を通して描かれた、牛頭馬頭らが跋扈し、九歳の少女が武装した難民たちを率いて獄卒どもと闘い、七十七歳の太った塾長が青年たちを戦闘要員として訓練している、折れた東京タワーを戴く首都は何が原因で地獄と化してしまったのか。転生する者の前に幾度となく現れる、時空と善悪の彼岸を超えた存在ブックマンとは何者なのか。タイトルに記された「南無」と「ロックンロール」はいかにして結びつくのか。「コーマW」の〈私〉が紡ぐロックンロールの物語は、どのようにして六つの大陸とひとつの亜大陸と日本をつなげ、二十世紀を横断していくのか。

いくつもの謎を投げかける、破格に、豊穣に、過激に、混沌としている、それぞれ独立して読んでも無類に面白い物語のなかから、徐々に「コーマW」「浄土前夜」「二十世紀」の函に分けられた語りのつながりが浮かび上がってくる。第七の書とそれを引き継ぐエピローグを読み終えて、震撼しない者がいるだろうか。古川日出男は、稼働の限界を超えるあまり真っ赤に燃え上がるに至った想像力を、読者に突きつける。苛烈な想像力が生みだした混沌の渦のなかに読者を巻きこみ、三・一一後の世界に生きるわたしたちを一九九五年へと引き戻し、「二十世紀は本当に終わったのか」という問いを突きつける。凄まじいカタストロフィを経験した世界で、物語になにができるのかを身を挺して示すこの剣呑な小説を経ないで、果たして三・一一について考えることは可能だろうか。
そして、また。『ロックンロール七部作』をパラフレーズ、流転させたのが、『南無ロックンロール二十一分経』であるということも重要。すなわち、古川日出男は物語も輪廻転生することを、このメガノベルで実証してみせたのだ。その意味でも、文学史にとってメルクマールというべき貴重な作品なのである。

『本の雑誌』2013年7月号
『南無ロックンロール二十一部経』古川日出男/河出書房新社
『南無ロックンロール二十一部経』古川日出男/河出書房新社

忌むべき“物語”に立ち向かう小説『曼陀羅華X』

『曼陀羅華X』は、この『南無ロックンロー二十一部経』では寓意的に扱われていたオウム真理教による無差別テロという忌むべき“物語”に真っ直ぐに立ち向かう小説になっているんです。
最初に登場するのは、1942年生まれの初老の小説家〈私〉です。〈私〉には聾者である幼い息子・啓と、年に3、4回ふたりのもとを訪ねてくるガールフレンド(戸籍上の妻ではあるけれど、啓の産みの母ではない)がいます。はじめのうちは息子との手話を通した愛情深い生活が描かれていくのですが、〈遅かれ早かれ彼らは現れる〉という不吉なフレーズをきっかけに、〈私〉の記憶は1995年3月30日へとさかのぼっていきます。
警察庁長官が何者かに狙撃されたその日、〈私〉は3月20日に地下鉄サリン事件を起こした教団内の武闘派メンバーによって拉致され、予言書を書くことを強要されるんです。

〈運命の年の五月に教祖“逮捕”があって翌る年の一月に教祖“救出”がある。それでは解放された教祖はといえば宗教戦争に入られる。そのように予言は断じた。それどころか教祖は世々永遠となられるとも記述した。具体的にはこうだ。「初代も二代めも三代めも同じお方、教祖は永代にして、人類の歴史の比い無し」と。(後略)〉

2004年のオリンピックののち、東京を制圧するまでを記した予言書を、教団はなぞっていくことになります。その重要なミッションのひとつが二代めの誕生。重責を担ったのが19歳の若き信者〈わたし〉で、以降、物語は小説家〈私〉を語り手にした「大文字のX」と、二代めを産んだがゆえに「御母様」として教団内で大きな権力を有することになる〈わたし〉を語り手にした「大文字のY」、ふたつのチャプターから2004年に起こる国家対宗教団体対作家というクライマックスまでが描かれていくことになるんです。

1996年に、産まれたばかりの二代めを拉して教団を脱出し、啓と名づけて護り続けてきた〈私〉。予言書をめぐる極秘のプロジェクトに関わった者すべてが死んでしまったゆえに、我が子を連れ去った者の正体も行方もわからないまま、しかし、二代めの降臨を諦めない〈わたし〉。

多くの預言者の言葉を引用したヨハネ黙示録のように、かつての自作をリミックスしたラジオ小説『666FM』と、幼き日にカルト教団の集団自殺を生き延び、666FMのディスクジョッキーとなったDJXを主人公にした『らっぱの人』、このふたつの小説によって、かつて自分が記した予言書に対抗しようとする〈私〉。予言を実現させるために着々と準備を進め、予言書を記した〈私〉にシンパシーに近い感情を抱くようになる〈わたし〉。
このふたりの視点を通した、2018年の7月に教祖は死刑に処され教団も弱体化したオウム真理教にまつわる現実に起きている“物語”の語り直しのすべてが、サスペンスフルでスリリングで、不謹慎で危険なんです。〈私が「こうではないか。こう展開したのではないか?」と想像する現実というのも、この世界にはある。〉と作中人物に語らせる古川日出男は、なぜこの小説を書いたのか。読みながら、読んだ後、考えない読者はおりますまい。拙い私見ではありますが、わたしは古川さんは「オウム真理教にまつわる“物語”はまだ終わってないし、終わることもない」と考えているからではないかと思うんです。

〈劫濁は天災その他。見濁は間違った思想のはびこり。煩悩濁はもちろん煩悩のはびこり。衆生濁は人間に資質の低下。そして命濁。そのような人間の寿命は短い。/この五濁が現代社会にないとは言えまい。あるとしか言えまい。それしかないとしか言えまい。/つまり濁った。徹底的に濁った。日本国は。/だから代わりに宗教国家の樹立が求められる。否とは言えまい〉と確信している〈わたし〉。
〈素人のテロリストが増えた。/結局、何かが時代の鬱屈と噛みあった。わけても二○○○年代に入ってからの閉塞感と。/暴力は渇望されていた。/私はこうした東京を予想していた。というよりも、私は、既視感をおぼえてもいた。やはり、こう──こちらに──進むのだ、と。〉と憂える〈私〉。

ここからの物語を自分の想像力でデザインせよ

過去ときちんと向き合いもせず、新しい問題ばかりに目を向けていては、また同じことが起きるだけではないのか。新たなオウム真理教的なものに、また大勢の人間が帰依し、自分を預けてしまうのではないのか。この危険な問題作からは幾度かこんな言葉が目に飛び込んできます。

〈お前の運命をデザインしろ。〉

これこそが、『曼陀羅華X』がわたしたち読者に伝えたいメッセージなのではないでしょうか。
この小説は最後まで読んでも終わりません。むしろ、終わりのページから始まるといってもいいかもしれません。ここからの物語を自分の想像力でデザインするのが、『曼陀羅華X』を読んだ者に課せられた使命と、わたしは受け取りました。

そして──。
〈もしもステレオタイプではない文学をするならば、ここまで来い。〉
この挑戦に応えたいと願うのが、古川日出男の小説の愛読者にちがいないのです。

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