「中国人だけどいいやつじゃん」の違和感。日本で感じた“中国籍であること”の生きづらさ
今注目のペイントアーティスト・チョーヒカルのエッセイ集『エイリアンは黙らない』(晶文社)が2022年1月に発売された。
本書は、国籍や性別による区別など、社会の不条理さにくじけそうになっても、自分の足で歩いていく覚悟を込めたエッセイ集。チョーヒカルが綴る「成長」と「主張」に多くの反響が寄せられた。
本書の発売を記念して、同書に掲載されているエッセイを特別に公開する。
エイリアン・フロム・ジャパン
今も鮮明にフラッシュバックする光景がある。週末、人でごった返している昼間の新宿駅。東口の改札を出て階段を上がると、アルタ前に出る。その目の前にある広場には街宣車が止まっていた。大きく日の丸が描かれた車からは、スピーカーが二つ突き出ていて、日本の童謡が聞こえてくる。音楽に被せるようにして、ただただ汚い言葉を叫んでいる男性の声がマイクを通して響き渡っていた。
真っ青な晴天、寒くもない。こんなにも天気のいい中、泥の中でぐちゃぐちゃに踏みつけられたような言葉が、日本在住の韓国人や中国人に向けて、乱雑に投げつけられていた。『在日』という言葉で括られ、蔑まれていた。「出ていけ、迷惑だ。お前たちは人間以下だ。ゴキブリと同じだ」
街宣車の周りにいる数十人の集団が、差別的な言葉を書き殴った看板や「南京・慰安婦はでっち上げ」などと写真付きで書かれたパネルを掲げて、街宣車の男の掛け声に合わせて叫んでいる。まるで、地獄のようだった。私はただ、新宿で映画を観ようと思っただけなのに。
街を行き交う人々は、まるで街宣車が見えないといったような素振りだが、ちらりと「そちら」のほうを見たかと思えば何をするでもなく通り過ぎていく。こんな光景を、吐き気を催さずに意識からブロックしてしまえるなんて。もちろん、恐怖心もあったに違いないが、それでも──。
私と日本の関係はなかなか複雑だ。西東京の端っこ、のどかすぎる東久留米市に生まれ落ちてからずっと東京で育った。日本語を話し、日本の学校に行き、日本の文化を吸収して、正直特に違和感もなくすくすくと大きくなったが、自分のことを「日本人」だと思ったことは一度もなかった。中国籍だからだ。大人になってからも、海外の仕事や留学で、帰化の手続きができる機会はなかなかなく、未だ中国籍。ただそれだけで、強く「自分は中国人なのだろう」と思ってきたし、周りからもそう扱われてきた。
「常識」と呼ばれる古い価値観や場の流れに反するような意見を言うと「チョーは大陸の血が流れてるからな」と言われた。昔好きだった人には「呼ぶとすぐ来る中国人」と周りに紹介されていた。だから、私は自分のことをずっと中国人だと思っていた。事あるごとに「中国人だもんな」と言われるし、旅行から日本に帰ってくるときは指紋を取られる。みんなとパスポートの色が違ってビザの取得も面倒くさいし、いつでも持っていないといけない「外国人登録証」を持っていて、うっかり失くすと親の顔が真っ青になる。ずっと、お前は日本人じゃないからな、と言われてきたし、そうだと思って生きていた。
中国語は日常会話くらいしか話せないし、天津にあるおばあちゃんの家に年に1回行くか行かないかでしか中国を体験していないのに、自分は中国人以外の何者でもないと思っていた。だから学校で日本の国歌を斉唱しろと言われたとき、私には歌う権利がないと思ったし、「日本人はやっぱり」が枕詞についている会話は、一瞬でチューンアウトしてしまった。
ときどき「いや、チョーはもうほぼ日本人だから大丈夫だよ」と言われることもあったけれど、何が大丈夫なのかわからなくて、全然大丈夫ではなかった。「ほぼ」の意味もよくわからない。ただ、日本に生まれて、みんなと同じように特に何も考えず生きてきただけであって、特に強く「中国人より日本人でありたい!」なんて思わなかったし、まるで日本人のほうが偉いかのような言い方をされると、親族を馬鹿にされているようで腹が立った。誰が中国人でいたくないなんて言ったのか。中国籍であることが悪いことではないと、どんなに頭でわかっていても、中国人であるということは、私にとって往々にして戦わなければいけない理由だった。
ずっとずっと、中国への不信感や中国人への嫌悪を耳にしてきた。最初に触れた街宣車やヘイトスピーチは最たる例だ。別に中国人の友達だって中国や中国政府の悪口は言うけれど、私は多くの日本国籍の友達の「唯一の中国籍の友達・知り合い」だった。だからいつでもその人たちの持つ、中国への偏見を裏切らなければと躍起になっていた。「チョーは中国人だけどいいやつじゃん」と言われて、モヤッとしながらも受け取ってきた。周りに誰も在日の権利なんて話している人がいない中で「自分が存在していてもいいはずだよね?」と自問自答することはとても辛いし、同時に悲しいことでもあった。それは私の自意識の形成に、とても大きい影響を与えていたのだなと今になって思う。
あの頃のフラッシュバックは続く。ヘイトスピーチを無視して通り過ぎる群衆の中、私はただ立ちすくんでいた。胃の奥底からムカムカとした言語化できない感情が沸き上がってきて、全身が震える。悲しくて泣くわけでも、怒って叫び出すわけでもなく、私はただ、ワナワナと震えたり、固まったりするだけだった。体が動かない。声も出ない。私という人間に対し、これだけの他人が、会ったこともない人々が悪意を向けてくる。人の存在を否定するような行為に対して、異論を申し立てる人は、ここにはたったの一人もいない。感じたことのない孤独だった。中国人というだけで、そして日本に住んでいるというだけの理由で、尊厳を傷付けてもいいという免罪符は、いつ発行されたのだろう。
あれから少し時間が経って、驚いたことに、ニューヨークにやってきた私はどうしようなく「日本人」だった。そもそも日本語が第一言語だし、育ってきた文化も完全に日本のものだった。周りも私を「日本の子」として扱う。日本で中国について聞かれると答えられないことばかりだったのに、日本のアニメや生活のことを聞かれて、答えに困ることは一切なかった。おすすめの店も、政治のことも、全てちゃんと答えられた。中国からの学生がたくさんいる大学院で、文化や言語の明らかな差にも戸惑った。だって私はどうしても中国コミュニティに属すことができなかったから。26年間持っていた自分へのイメージがバラバラ崩壊していく。見事なアイデンティティクライシス。それで改めて、なんだったんだろうと思った。私が苦しんで、戦って、守ってきたこのラベルの意味はなんだったんだ。
ニューヨークでは、アジア人と友達になることが多い。やはり中国、韓国、日本あたりは文化が近いこともあって、アメリカという土地において話が通じやすい。みんなお米が好きなのでお互いにおすすめのアジア料理屋を開拓して教えあい、助けあったりしている。なぜ日本ではこうならないのだろう。その国でマジョリティになった瞬間、人の心にはドス黒い何かが生まれてしまうのだろうか。自分の育った文化をよく知って誇りに思うのは何よりだが、それをお互いに共有して人生を豊かにする選択肢を選べない人たちがいるのはなぜなのか。
こうして、悩みとアイデンティティが迷子になりながら過ごすニューヨークで、私は日本の好きなところをたくさん見つけた。隅まで行き届いた清潔さ、山手線の便利さ、あん肝ポン酢の美味しさ、新鮮な刺身、コンビニのお惣菜の種類の多さ、お風呂、ふらりと寄れる立ち飲み屋、至れり尽くせりなカラオケ……離れて遠くから眺めてやっと見つかる愛しいものがたくさんあった。もちろん改めて苦手だなと思うところもあったし、ニューヨークのオープンさと比べて日本の閉塞感を感じたりもした。だけどこんなに好きな部分を見つけたことが驚きだった。
上陸禁止令が出たり、在日の人に対するヘイトデモに出くわしたり、ネットで中国籍であることに対してものすごい量のヘイトコメントを投げつけられたりして「日本は私のことが嫌いなのだから、私も日本が嫌いだ」と思おうとしていた時期だったからなおさらだった。正直、捨ててしまえるなら捨ててしまいたかった。日本にも中国にも馴染めないのだから、全て忘れてニューヨークで生きていこうとさえ思っていた。それなのにニューヨークにいればいるほど自分の体や記憶がどれだけ日本での日々に形作られ、支えられているかを実感するのだ。ひどい話である。
当時、ヘイトスピーチを撒き散らす街宣車を見ながら、私は「殴ってくれればいいのに」と思った。実際に殴られれば、ちゃんと罰することができるから。そうしたら「そんなヘイトスピーチなんて極端な例なんだから無視すればいいよ!」なんて言われることはないだろう。今この車の前に飛び出して「私は在日中国人です」と言えば、誰か私を殴ってくれるだろうか? そうすれば、傷を負えば、交番から警察の人が走って出てきてくれるだろうか? ようやく誰かがこの状況を咎めてくれるだろうか? それならいっそ殴ってくれ。そんなことを本気で考えた。私の存在はこの日本という国で歓迎されていないのだと強く思った。
なのに、私は今日もまた、アメリカで出会った友達や知人に日本の自慢をしてしまう。ラーメンが18ドル(2000円)なんてあり得ない。日本ではめちゃうまいラーメンが1000円以下で食べられるんだよ、と。日本の地下鉄は空調が効いていてゴミもないし最高に綺麗だよ、と。周りから「日本から来た人」として日本のことを聞かれて初めて、私は自分ごととして日本文化を誇ることができた。日本のいろいろを「好き」であることを認めざるを得なくなった。そろそろ観念しなければいけないのだろう。誰がなんと言おうが、国籍がなんであろうが、私のルーツは日本なのだと。だから、お願いだ、誇れる場所であってくれ。ヘイトを許さない場所であってくれ。好きになってくれとまでは言わないから、存在が許されていると感じられる場所であってくれ。一生のお願いだ。
※『エイリアンは黙らない』「エイリアン・フロム・ジャパン」より
【関連】m-floが語る差別とアイデンティティ「日本人にも韓国人にもなりきれない」
-
『エイリアンは黙らない』(晶文社)
著者:チョーヒカル
定価:1,760円(税込)
発売日:2022年1月26日注目のペイントアーティストが綴る、毎日間違えて、へこんで、社会の不条理さにくじけそうになっても、怒って、戦って、考えて、自分の足で歩いていく覚悟を込めた「成長」と「主張」のエッセイ集。書き下ろし漫画も6篇収録。
関連リンク
関連記事
-
-
天才コント師、最強ツッコミ…芸人たちが“究極の問い”に答える「理想の相方とは?」<『最強新コンビ決定戦 THE ゴールデンコンビ』特集>
Amazon Original『最強新コンビ決定戦 THEゴールデンコンビ』:PR -
「みんなで歌うとは?」大西亜玖璃と林鼓子が考える『ニジガク』のテーマと、『完結編 第1章』を観て感じたこと
虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会『どこにいても君は君』:PR -
「まさか自分がその一員になるなんて」鬼頭明里と田中ちえ美が明かす『ラブライブ!シリーズ』への憧れと、ニジガク『完結編』への今の想い
虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会『どこにいても君は君』:PR -
歌い手・吉乃が“否定”したかった言葉、「主導権は私にある」と語る理由
吉乃「ODD NUMBER」「なに笑ろとんねん」:PR