長い不遇時代を経て昭和12年『暢気眼鏡』で芥川賞を受賞、私小説作家の第一人者として知られる尾崎一雄。筆者は、尾崎の作品を20年以上愛読してきた。「読み返すたびに新たな発見がある」という。
戦中、大病を患い余命3年と宣告されるも、1983年3月、夕食をすませた3時間後に83歳で亡くなった尾崎一雄。その生き方に学んだこと。
冬は怠ける、「冬眠居士」尾崎一雄の教え
わたしは新型コロナのニュースに心が動かなくなりつつある。危機感がなくなったわけではない。今もマスク、手洗い、うがいに加え、外出の際は水筒にいれたお茶とのど飴を常備している。
12月以降は、遠出を避け、仕事を減らし、「冬眠」モードに入る予定だ。
冬怠けるのは「冬眠居士」と称していた私小説作家の尾崎一雄の教えでもある。
かれこれ20年以上、尾崎一雄を愛読しているが、読み返すたびに新たな発見がある。
「父祖の地」(『暢気眼鏡・虫のいろいろ 他十三篇』岩波文庫)は「父は、大学を出ると直ぐ、伊勢宇治山田の神宮皇学館に奉職した」という一文からはじまる。
1899年のころの話だ。その年の12月25日に尾崎一雄は生まれた。尾崎家は祖父の代まで神奈川県の下曾我の神社の神官をつとめていた。
尾崎一雄は中学のころから将来、文学の道に進みたいと考えていたが、父に反対されていた。当時は「文学を志すとはそのまま貧窮につながる」という社会通念があった。
例年の通り、年末に伊勢大神宮参拝に行った父は、流行感冒を背負って来た。俗にスペイン風邪と云われ、大正八九年に大流行したあの風邪だ。
「父祖の地」『暢気眼鏡・虫のいろいろ 他十三篇』尾崎一雄(岩波文庫)
西暦でいうと1919年から20年。たまたまだろうが、100年前の出来事である。
1920年2月10日、尾崎一雄の父はスペイン風邪で47歳のときに亡くなった。父はスペイン風邪になる前から、胃腸病を患って休職中だった。

尾崎一雄著『まぼろしの記 虫と樹も』(講談社文芸文庫)所収の「楠ノ木の箱」でも父の死とスペイン風邪の話を書いている。
このスペイン風邪は、七年から八年にわたって全国的に流行し、患者数百五十万、うち十五万人が死んだ。私はこの風邪で寝込んだ覚えはない。動き廻っているうち、いつか治ってしまった。
「楠ノ木の箱」『まぼろしの記 虫と樹も』尾崎一雄(講談社文芸文庫)
尾崎一雄自身、父が亡くなる1年前にスペイン風邪にかかっていた——何度か読んだはずなのにそのことを忘れていた。
「父祖の地」は1935年、「楠ノ木の箱」は1968年の作である。
なお、日本におけるスペイン風邪の感染者数は2000万人以上、死者数は38万人以上というのが現在の定説である。
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