評論家・坪内祐三さん追悼
想像はわたしたちに委ねられている(橋本倫史)
2020年1月13日、評論家の坪内祐三さんが61歳で亡くなった。突然だった。坪内さんには雑誌『クイック・ジャパン』で2004年から2007年の間、「東京」という連載をお願いしていた。坪内さんの言葉は『クイック・ジャパン』の背骨となるものだった。坪内さんの教え子であり、『ドライブイン探訪』他の著書もあるライターの橋本倫史さんに、坪内祐三さんについて書いていただいた。
「とりあえず、新宿厚生年金会館に」
今日はお昼に新宿で打ち合わせがあって、それからずっと新宿にいる。「紀伊國屋書店」(新宿本店)の店をじっくり眺めてまわり、地下にある「モンスナック」でコロッケカレーを食べた。
どこからか声がする。「あれ、はっちゃんは昔、『ニューながい』派だったのにね」と。
紀伊國屋の地下には昔、「モンスナック」と「ニューながい」というふたつのカレースタンドがあった。「モンスナック」はさらさらしたカレーであるけれど、「ニューながい」はごく普通のカレーを出す店だった。僕はよく「ニューながい」を利用し、そのことをウェブの日記に書いていた。本当に、日々の出来事をただ書き記している日記にまで、坪内さんは目を通していた。その視線に僕はいつも緊張していた。
今思い返しても、緊張する。
たとえば、今、僕は「ニューながい」はごく普通のカレーを出す店だったと書いた。その「ごく普通」ということを、僕はうまく説明できない。「ごく普通」ということには幅がある。はっちゃんの言う普通って、どういうことなのと問われたとき、僕はうまく説明できないだろう。なにより、僕は今、「ニューながい」の味を思い出せずにいる。
今日の夜は新宿で飲もうと決めていた。
坪内さんの訃報に触れたとき、僕は大阪にいた。今日はようやく東京に帰ってきたので、新宿で飲もうと思って、街を彷徨っていた。「らんぶる」で本を読んで、「photographers’ gallery」で写真展を観たあとは、「ベローチェ」(新宿一丁目北店)の窓際の席に座り、靖国通りをぼんやり眺めていた。日が暮れてくると、通りの向こう側に新しいビルが光っていることに気づく。そこにはかつて新宿厚生年金会館があった。僕は新宿厚生年金会館を訪れたことはなかったけど、どこかから新宿の酒場に流れるとき、坪内さんはよく「とりあえず、新宿厚生年金会館に向かってください」と伝えていた。厚生年金会館が取り壊されて、しばらく更地のままになっていても、坪内さんはそう伝えていた(それが伝わらなければ少し不機嫌になり、伝わると嬉しそうだった)。いつだか、更地になった空間を眺めながら、「この風景をおぼえとくといいよ」と言っていたことを思い出す。
思い返してばかりいると、17時15分、ケータイが鳴った。『QJWeb』編集長である森山さんからだ。電話の用件は、坪内さんの追悼文を書いてもらえないかというものだった。
(次頁「僕にとって『恐ろしい視線』は坪内さんだった」につづく)