2023年よりソロ活動を開始し、同年8月にバンド・Aooo(アウー)を結成した石野理子。連載「石野理子のシネマ基地」では、かねてより大の映画好きを明かしている彼女が、新旧問わずあらゆる作品について綴る。
第2回のテーマに石野が選んだのは『シークレット・サンシャイン』(2007年)。イ・チャンドン監督が手がけた、「秘密の日差し(=シークレット・サンシャイン)」を意味する名称の都市・密陽(ミリャン)を舞台に繰り広げられる重厚な人間ドラマだ。そんな本作に重ねる、彼女が自身の学生時代に抱えていた思いとは?
『シークレット・サンシャイン』あらすじ
幼い息子のジュンを連れて、ソウルから亡き夫の故郷・密陽に移り住み、人生の再スタートを切ったシングルマザーのシネ(演:チョン・ドヨン)。地元で小さな自動車工場を営むお人好しのジョンチャン(演:ソン・ガンホ)が、何かと世話を焼いて彼女の気を引こうとするが、シネは一向に彼を相手にしない。ところが、新天地での生活にようやくなじんできたある日、ジュンが何者かに誘拐された挙げ句、死体となって発見され、シネは絶望の底へ突き落とされてしまい……。
※本稿には、作品の内容および結末・物語の核心が含まれています。未鑑賞の方はご注意ください
自分の価値観と向き合わされる映画
自分を形成した価値観や自分の信念って、日常的に考えるには複雑で煩わしくて、つい避けてしまいますよね。
私の場合、このような頭が痛くなるような難題は、深掘りしたい話題に出会ったときや作詞をするときにゆっくり時間をかけ、改めて向き合います。
今回紹介する映画は、許しや信仰について考えさせられ、自分の価値観と向き合わざるを得なくなるイ・チャンドン監督の『シークレット・サンシャイン』です。
私がイ・チャンドン監督の作品に出会ったのは、韓国映画にハマり始めた2019年ごろでした。大学生になって時間に余裕ができたため、配信で『オアシス』や『バーニング 劇場版』を観ていました。
その時から、監督の作品は皮肉っぽくも説得力があり、それでいて悲しみや無気力をまとう主人公が輝いていく過程に魅力を感じていました。
この作品を初めて観たのは、監督の全作品のレストア版が公開された2023年の夏でした。
鑑賞後、衝撃のあまり身体のすべての力が抜け、ふらふらと帰路に就いたのを覚えています。学生の私が観ていたらおかしくなっていただろうし、強く影響を受けていたかもしれないとも思います。
ミッション・スクールでの礼拝
私は中高一貫のミッション・スクールに通っていて、毎朝礼拝をしていました。
入学時は違和感のあった祈りの最後に復唱する「アーメン」も、高校1年生になるころにはどのタイミングで言うのかがボーッとしていてもわかって、自然と口が動いていました。
日直になった日には、帰りのホームルームで祈りの言葉を考えて発表する必要があって(たとえば、試験が控えていたら「生徒が体調を崩さず勉強に集中できますように」とか)、最後は必ず「神の御心がありますように」で締めなければいけませんでした。
祈りに関しては「説教臭いなぁ」「押しつけがましいなぁ」と思ったりすることもありましたが、それよりも6年間通っていてずっと不思議で何度も考えていたことが、キリスト教の教えである「許す」ということについてでした。(編集部注:キリスト教における「許し(赦し)」とは、新約聖書に記される祈祷文の一節「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」で言及される考え)
行事や記念日と重なったときの長い礼拝では、多感な時期だったこともあり、今作の主人公・シネの後半の姿のように、自分から発生したものではない思想について、日常的に復唱する習慣が組み込まれることで、個人としての考えとキリスト教の考えの境界が曖昧になり、混乱することもありました。
「そんなに考えてしまうものか」と思うかもしれませんが、6年も毎日のように讃美歌を歌い礼拝をしていたらその意味を無意識のうちに考えてしまったりするんです。笑
そのため、この作品を初めて観たときは過去の未消化だった感情が炙り出されて、とても苦しくもなりました。
「敵を許し、敵を愛せ」
この作品では、主人公・シネの心の機微と私たち人間にとって本質的な問題が俯瞰的かつ繊細に描かれています。
シネは息子と一緒に再起しようと亡くなった夫の故郷・密陽に越してきます。ある日、体の不調を訴え家の前の薬局に行くのですが、症状を聞いた薬剤師は薬ではなく、神様の愛、信仰が必要だと言い、自身が通う教会の冊子を渡そうとします。シネは「目に見えないものは信じません」と言い去るのですが、その後、彼女の留守中に息子が誘拐され殺されてしまい、深い悲しみと絶望に飲まれ、徐々に自暴自棄になっていきます。
この息子を失ったときのシネが慟哭する姿が凄まじく、強烈なインパクトがあり、そこから、シネの感情の波に私も飲まれていきました。
そして、再びシネは薬局に行き、精神的な苦しさから来る胸の痛みを訴えます。
するとまた、「世の中のすべてには神の御心があるの」と薬剤師に教会へ行くことを勧められ、彼女は疑いながらも教会に足を運びます。祈祷中、シネは抑えていた感情の栓が抜けたように泣き叫び、人が変わったように信仰に目覚めます。
以降、自分の身に起こったすべてのことを受け止めている素振りを見せるのですが、同時に、見えないものに対して過敏になっているようにも見えました。
信仰をしたことで、自分に幸せを与えてくれた神にありがたみを感じ、シネは「敵を許し、敵を愛せ」という教えを実行しようと、息子を殺した犯人に面会することを決意します。しかし、シネが許しを伝える前に、犯人はすでに「神に許しをもらい、心安らかに過ごしている」と言ったため、予想外の言葉に彼女は気が動転してしまいます。
何を“救い”とするか?
ここでシネが感じたことは、私が学生のころに感じたものと近かったのではないかと思っています。
シネは「私が苦しんでいる間に、犯人は神に許されて救われていた」ととてつもない憤りを感じていますが、私の場合は、どんなに重罪を犯した人でも許されてしまう(具体的には、実際は法が人を裁くけれど、告解をすると、その人にあったすべての罪の意識が清算される)、都合のよさみたいなところに違和感を覚えていました。シネもその解釈の自由さに打ちのめされたようでした。
面会後、シネは反抗的な態度で教会の集まりに出ては妨害したり、空を見上げては「見ているか?」と神に試すような視線を送ったりと、徐々に精神的に崩壊し、入院することになります。
信仰に目覚めてからのシネは完全に宗教にすがり、振り回されているようで危なっかしさがありました。面会に行く前に、彼女に好意を寄せるジョンチャンが「心で許せばいいのに。聖人じゃないのに」と言葉をかけるのですが、その言葉こそが私にとってとても腑に落ちるセリフでした。宗教が絡むとつい複雑に考えてしまいそうですが、法でもないし仏や聖人でもないのだから、「許す」の判断は自分にあっていいと思わされたんです。
シネは無事に退院することになり、久しぶりに家に戻ります。そんな彼女の隣には、一切興味のない礼拝や、犯人との面会にしつこくついてきていたジョンチャンがいました。そこで私は、彼女にとっての救いは、ずっと隣にいた人だったのかもしれないと気づかされます。
何をもって許すのか、何が救いになるかは人それぞれであることを再認識させられたラスト、彼女の庭の一角には未来への淡い期待と温かな陽が射し込んでいました。