マネスキン、リンダ・リンダズとは? King Gnu、ホルモンの言動で注目された2バンドを知る
『SUMMER SONIC 2022』のステージ上でのKing Gnu、マキシマム ザ ホルモン、ONE OK ROCKの言動を問題視する声が相次いで上がった。
それら一連の件で音楽ファン以外からも注目を浴びたMåneskin(マネスキン)とThe Linda Lindas(リンダ・リンダズ)だが、日本のメディアでは詳細な情報が語られることがごく少ない。本記事ではこの2バンドの詳細な紹介をすると共に、一連の件の背景について考えていく。
10年後、100年後のリスナーへ
2030年代や2100年代の音楽ファンに宛ててこれを書いている。2020年代初頭のシーンはこんな感じだった。この記録をのちの世で何かの足しに参照してもらえたらありがたい。願わくばこちらの現状に心底ドン引きしてほしい。そのくらいは進歩があっていいはず。
サマーソニックという音楽フェスはそっちの時代にもまだあるだろうか。2000年に始まった夏フェスで、国内最大規模のうちのひとつだ。都市部でやるし屋内なので快適。
事の次第はこうだ。2022年のサマーソニックにマネスキンが出演した。ベースのヴィクトリア・デ・アンジェリスは星型のニプレスをつけてステージに上がり、終盤はそれも外して上裸で「I WANNA BE YOUR SLAVE」を演奏、ステージをあとにした。別ステージにはリンダ・リンダズが上がった。日本語で挨拶し、「Racist, Sexist Boy」をはじめとした代表曲のほか、THE BLUE HEARTSの「リンダリンダ」をカバーしたことでも話題になった。
そしてKing Gnuのメンバーがヴィクトリアのニプレスを、マキシマム ザ ホルモンのメンバーがリンダ・リンダズの日本語でのMCを茶化すような言動をして批難を呼んだ。
マネスキン 古くて新しい二面性
この時代までの両バンドのプロフィールを書き出しておく。
マネスキンはイタリア出身、2022年現在21〜23歳。2010年代終盤からのヒップホップの隆盛の影で勢いを失って久しいロックのシーンから久々に現れた期待の新星といった評価をされている。
新星といってもやっている音楽は古風といっていいど真ん中のロックンロール。わかりやすい音楽的な更新性よりもただただ楽曲のよさで突き抜けてきた。ただ、間違いなく2020年代だからこそのバンドだといえるのがレプリゼンテーションの面。2022年現在の読者のために説明しておくと、レプリゼンテーション(representation)は第一義的には「表現」「代表」といった語に訳される。現代的な使われ方としては、社会的にフェアで包括的な表現がなされているか、という点を問う際に頻出の言葉だ。
見てのとおり、ヴォーカルのダミアーノ・デイヴィッドをはじめ、トーマス・ラッジ、イーサン・トルキオも共に男性性を転覆させるような志向の装いを好んでしている。一方ヴィクトリアはかねてニプレス姿でメディアに露出し、幼いころから感じてきた女性として客体化されることの苦痛、性的対象化に対する忌避感を訴えてきた。
ちなみに2022年現在ネット上では「性的対象化」ではなく「性的消費」という言い回しが流布しているのだけれど、これはアカデミアにはない言葉なので、このワードで検索している限り適切な情報ソースには辿り着けない。未来ではこの言葉が廃れていることを切に願う。
ともあれ、ホモソーシャル(単一の性別の構成員に偏ったコミュニティ)なロックのシーンにおいて、こういったレプリゼンテーションが色物扱いされずおおむねただかっこいいものとして受容されている程度には世界の感覚は進歩している。この程度を進歩なんていったら未来の読者に笑われるかもしれないけれど。
それに加え、オーディション番組とTikTokでのヒットを機にファンダムを拡大するという極めて2010〜2020年代的なあり方も興味深い点だ。
音楽性については昔ながらの変わらない味、ただ見せ方と見つけられ方はかなり今っぽい。その二面性がマネスキンらしさといえるんじゃないかと思う。ただ、サブスクリプション世代にとってはこの音楽性が懐古的だという感覚自体が希薄なのかもしれない。何周目だろうが聴いたのが今であれば今の音楽になる並列的な捉え方の可能性もある。それもまた2020年代らしい。
リンダ・リンダズは’20sのriot grrrl
アジア系、ラテン系、あるいはその双方のルーツを持つミックスルーツのメンバーからなる女性4人組バンド。2022年現在、最年少は12歳、最年長でも17歳。ちなみにこのミックスルーツやマルチレイシャルという言葉は2022年現在の日本ではほとんど浸透していなくて、最も一般的な言い回しはいまだ「ハーフ(Hafu)」だ。かつてそういう言葉があったらしいと聞いたことくらいはあるんじゃないだろうか。
前述の「Racist, Sexist Boy」は、COVID-19の感染拡大(この記事を書いている時点でまだ収束していない)に際して、同級生の男子から向けられた差別へのカウンターとして書かれた曲だ。ティーンでありながら、有色人種であること、女であることを真っ向からrepしている。また、そういったスタンスによって世界中の年上のファンたちからそこらの大人のバンド以上にリスペクトされている。
ミュージシャンが政治的発言をすることの是非についてとにかく一切言葉を尽くしたくない。がんばってやる筋合いがない。大昔から今までずっと当たり前にされてきたことで、それを知ろうともしない人間たちの「今までなかった前提」の自論に付き合ってやっても、もうすでに見えていて飽き飽きな声をよけいに可視化するだけだからだ。これまでもこれからもずっとある、それだけだ。
彼女らをオープニングアクトに起用した著名な先輩は枚挙に暇がないけれど、中でも特筆すべきなのがビキニ・キルのキャスリーン・ハンナだ。ビキニ・キルは90年代にアメリカのアンダーグラウンドシーンで勃興したムーブメント「riot grrrl(ライオット・ガール)」の旗手としてリスペクトされている。
riot grrrlとは、音楽ムーブメントであると同時にフェミニズムのムーブメントでもあり、女性たちがセクシズム(性差別)に対する反抗をパンクロックに乗せて表現したもの。彼女らの出入りするライブハウスではZINE(ジン)の頒布が活発に行われ、フェミニズムの考え方がシェアされていった。ただ、この非常に意義深いムーブメントはごく短期間で終息し、ミレニアムを迎えることはなかった。
長々説明したけれど、言いたいことはつまりビキニ・キルにとってリンダ・リンダズがどれだけ待ち望んだ存在だったことか!ということ。いや、本人たちが実際どう思ってるかは知らないけれど。
なんであれ、自分たちがリードしたムーブメントの終息から20年、凪の時間を経て隔世遺伝的に同じアティチュードを感じる子供たちが現れたわけだ。しかもリンダ・リンダズは単にriot grrrlを受け継ぐのではなく、riot grrrlがフェミニズム史において反省点として指摘されてきた部分をアップデートする存在といえる。
というのも、riot grrrlは中産階級の白人女性を中心としたムーブメントに終始して、人種的・階級的な包括性に欠けていたことが顧みられているから。そう、アジア系とラテン系のリンダ・リンダズだからこそ更新できる。そういった意味で、リンダ・リンダズはフェミニズム史上でも非常に大きな存在になり得る。子供にそれを背負わせる不甲斐なさはあるものの、そういうでかい話になってくる。
フリー・ザ・ニップルとゼノフォビア
先の『SUMMER SONIC 2022』での問題となった言動について、2022年現在のネット上では「茶化す意図があったかどうか」「バンド同士の関係性が良好か否か」にフォーカスした声が多く上がっている。差別問題すべてがそうであるように、意図は関係がないし、関係性がどうあれ何かが免責されることはない。そういう認識が当然の前提として共有されていない程度には、2022年はしんどい時代だったと知っておいてほしい。「彼らなりのリスペクト」というのがどういう道理で誰を尊重する助けになるのか、この時代にだって説明できる人間はいない。
そちらの時代ではこの問題自体が過去のものになっているかもしれないけれど、ヴィクトリアのやっていたことが「Free the Nipple(フリー・ザ・ニップル)」という社会運動だということは2022年の日本社会ではまったく認知されていない。2012年に始まったといわれているこのキャンペーンは、男性と違って女性が人前で乳首を晒すことに“特別な意味”が生まれる、つまり性的対象化されることに対する異議申し立てだ。
政治色のあるパフォーマンスによって社会にカウンターを突きつける、違和感を浮き彫りにする、波紋を広げる、議論の呼び水となって問題を可視化する。ライブのステージという場は元来“そういうふう”に使われてきて、ヴィクトリアも“そう”した。というかこれまでにもたびたび今回のようなことはやってきている。ヴィクトリアはずっと前からとっくにかっこいい。
恐ろしくて深く考えたくもないけれど、日本社会にそういった前提が共有されていないあまり、ヴィクトリアのパフォーマンスが「テンション上がって脱いじゃった」程度の、いわゆるラッキースケベ的なものとして消費されている部分は大いにあるんじゃないかと思う。2022年はそんなレベルだった。
そしてリンダ・リンダズについて。彼女らに対してなされたことが端的なゼノフォビア(外国人嫌悪)だということもまたじゅうぶんに認識されていない。
K-POPの隆盛に際して、「片言でかわいい」というのはグロテスクな愛で方なのではないか?という点についての自己批判はファンダムの中でされるようになってきているように思うけれど、やっぱりじゅうぶんに人口に膾炙してはいない。
人はまだまだ「しゃべった分しか考えていない」と思い込みたがる。言葉が拙いから思考も幼いなんて、海外旅行をしているときの自分に対しては思いもしないのに、自分が権威側の立場にいるときには簡単に誤認してしまう。そしてその底を突き詰めると、幼さや未熟さを美点として尊ぶ、この国全体に根を張るロリコン体質がある。
愛でるという名目でナメているということが往々にしてある。人間はそういうことをする。そういう「かわいい」という感情のトキシックな部分に大衆がじゅうぶんに自覚的になれる日は、2022年の今、遠く果てしない未来のように思える。
そちらの時代はどうだろう。ここに書いたようなことはすべて、びっくりするような、興味も湧かないくらい他人事な過去であってくれたら、そんなにうれしいことはない。
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