『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を“父殺し”で考察 星一徹から碇ゲンドウへ

2021.4.3
藤津

文=藤津亮太 編集=アライユキコ 


3月8日『新劇場版』(『序』『破』『Q』)シリーズ完結編 『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(正式には末尾にリピート記号)が公開。一部では「よかった!」「最高!」といった単純な感想すら「ネタバレ」と見なされる戒厳令的大ヒットの中で、アニメ評論家・藤津亮太は“父殺し”をテーマに『シン・エヴァ』を考察する(ネタバレは必要最小限に留めています)。

『巨人の星』の“父殺し”

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(以下『シン・エヴァ』正式には末尾にリピート記号)を観て、ちょっと驚いたのは予想以上に親子関係が大きな要素を締めていたからだ。だから映画を観ながら、これまでのアニメで描かれてきたさまざまな親子関係──特に父子関係──が頭の中をいろいろ去来することになった。アニメはいったい、どんな父子関係を描き、そこで“父殺し”はどういうかたちで表現されてきたのだろうか。

『シン・エヴァンゲリオン新劇場版』(正式には末尾にリピート記号)劇場用パンフレット(藤津亮太私物)
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(正式には末尾にリピート記号)劇場用パンフレット(筆者私物)

アニメに出てくる父親の中で有名な存在といえば、まず『巨人の星』の星一徹が挙がるだろう。星一徹は太平洋戦争のために巨人で活躍することが叶わなかった野球選手で、その思いが息子の飛雄馬に託されることになる。そしてこの「父の夢」がある種の“呪い”となって飛雄馬を呪縛することになる。

心理学者の河合隼雄は、父性原理を「切断」によって規範を示し、子供を鍛えるもの、母性原理を「包含」によって、子供を生み育てるもの、と説明している。これはどちらも、発露の仕方によっては、子供をスポイルしてしまう可能性も秘めた恐ろしいものでもある。ここで注意しておきたいのは、父性・母性といわれているものの、このふたつの原理は、性別を問わずひとりの人間の中に共存している、ということだ。普通に使うと性別のイメージと紐づいて紛らわしいので、この原稿では、以降「切断の原理」「包含の原理」というかたちで記そうと思う。

一徹はこの「切断の原理」が前面に出ている父だ。彼の中では「野球の道を極める子」こそよい息子で、それ以外の存在はすべて切り捨てられている。飛雄馬は、そんな一徹に対し、いわゆる“父殺し”を行えればよかったのだろうけれど、物語はそうは進まなかった。飛雄馬は「自分の中の野球に燃える気持ちは本物だ」という気持ちと「その気持ちは所詮、父に植えつけられたものではないか」というダブルバインドで苦悩しつづけることになる。

『巨人の星コンプリートBOX Vol.1』DVD/ワーナー・ホーム・ビデオ
『巨人の星コンプリートBOX Vol.1』DVD/ワーナー・ホーム・ビデオ

原作漫画は、このダブルバインドに対しとても苦いラストシーンを用意した。アニメ版は「父の挑戦を乗り越えたことで、ようやくただの父とただの息子になれる」というかたちで、“父殺し”の成功を描くが、その成功を一徹は父という立場から承認するのである。“父殺し”の結末が、個人としての対等な関係ではなく、父子という関係性に収斂するところが本作の非常に独特なポイントだ。見方によっては飛雄馬の死闘が、一徹の中の「包含の原理」を導き出したとも読めるが、そうだとしてもまた親子という縦の線はそのまま維持されつづけている。

『機動戦士ガンダム』の“父殺し”

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