バイデン大統領就任式、『ガンダム』『ヤマト』『亡念のザムド』…繰り返される「私たち」「私」の物語の先には

2021.2.2

『亡念のザムド』が引用した詩

アメリカ大統領就任式を入口に「私たち」の使い方を見てきたが、このように「私たち」という言葉は強い。ともすると「私たち」の輝きが強過ぎて、その中にいる「私」の姿がよく見えないということも起きかねない。そこに単なる単複の違いではない、「私たち」と「私」の関係が見えてくる。

そんな「私たち」と「私」の関係を浮かび上がらせる詩があり、その詩を引用しているアニメがある。それは『亡念のザムド』という作品だ。
『亡念のザムド』は第1話「ザムド 陽炎に現る」の冒頭から、詩の朗読で始まる。引用されるのは茨木のり子の「魂」。そして第12話では今度はラジオからの音声でやはり茨木のり子の「敵について」が流れてくる。
この「敵について」は、ふたりの語り手のかけ合いになっている。

『亡念のザムド 1』DVD/アニプレックス

私の敵はどこにいるの?

  君の敵はそれです
  君の敵はあれです
  君の敵はまちがいなくこれです
  ぼくら皆の敵はあなたの敵でもあるのです

茨木のり子「敵について」(『茨木のり子詩集』谷川俊太郎編集/岩波書店)より

「敵について尋ねる私」と「敵について説明をするぼくら」。ここでは「私」と「ぼくら=私たち」が異なる立場で言葉を交わしている。
『亡念のザムド』でこの詩を朗読するのは、北政府のヒルケン皇帝だ。北政府は、南大陸自由圏と緊張関係にあり、これまで幾度となく紛争・戦争を繰り返してきた。ヒルケン皇帝は、北政府の宗教的指導者で、ラジオ放送を通じて国民を教化している。第12話のラジオから聞こえてくる「敵について」の朗読もヒルケン皇帝(声は古谷徹)によるものだ。
その立場から、ヒルケン皇帝は、詩の中の「ぼくら」のほうに属しているように見える。だが物語の終盤、彼の出生にまつわる秘密が明かされることで印象が変わる。死産で生まれた彼は、そこに偽の魂(作中でヒルコと呼ばれている)を宿らせて生きながらえさせられた存在なのだ。それゆえ、彼は心の中に「虚無」を抱えて生きており、だからこそ自らの存在を明確にしてくれる「敵」を誰よりも求めていたのである。つまり作中では、ヒルケン皇帝というキャラクターの二重性を表すテーマとしてこの「敵について」が使われていたのだ。
「敵について」は、「私」と「ぼくら」の対話の果てに爽快なまでの締め括りを迎える。

 いいえ私は待っているの 私の敵を

  敵は待つものじゃない
  日々にぼくらを侵すもの

 いいえ邂逅の瞬間がある!
 私の爪も歯も耳も手足も髪も逆立って
 敵!と叫ぶことのできる
 私の敵!と叫ぶことのできる
 ひとつの出会いがきっと ある。

茨木のり子「敵について」(『茨木のり子詩集』谷川俊太郎編集/岩波書店)より

「ぼくら」の用意した枠組みを食い破り、「私」の思いが噴出する。この「私」のキリリとした振る舞いは、「倚りかからず」という詩で、あらゆるものに寄りかかって生きたくはないと記した詩人らしいものだ。
この詩で「ぼくら」はさかんに「敵」を定義する。言葉どおりに解釈すれば、ここの「ぼくら」の目的地は「境界線のこちら側」に留まっている。しかし最後の「私」の叫びを読むと、この「敵」は「愛」と入れ替えても成立するのではないか?という気持ちになる。そして「愛について」としてこの詩を読むと、「ぼくら」はけっして「境界線のこちら側」に留まるものではない主語として迫ってくる。
いずれにせよ、そんな「ぼくら=私たち」の合理的に見える提案を「私」は否定するのである。「ぼくら=私たち」の中にあっても「私」はあくまでも「私」を手放さず、「私だけの敵」を望んでいる。

「私たち」は、とても強い言葉で、人間はその強さを使って愚行を重ね、しかしなお前進してきた。そんな「私たち」は「私」の集合であるはずなのに、「私」としばしば重なり合わない。「私たち」の強さを認めつつ、「私」であることも手放さないとき、「私たち」はきっともっと強くなり、もっと遠くの境界線も飛び越えることができるのではないだろうか。

『茨木のり子詩集』谷川俊太郎編集/岩波書店
『茨木のり子詩集』谷川俊太郎編集/岩波書店

バイデン大統領は就任演説の中で、キング牧師がナショナル・モールで行った演説に触れた。あの演説の有名なフレーズ「私には夢がある(I Have a Dream)」の主語は、そう「私(I)」なのである。
私(I)から始まり、私たち(We)に至り、そしてまた私(I)へと還ってくること。それがこの世界を前進させるはずだ。

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