気軽に休める社会――休み休み歩いたほうが遠くまで行ける (荻原魚雷)
デビュー作『古本暮らし』以来、古本や身のまわりの生活について等身大の言葉を綴り、多くの読者を魅了しつづける文筆家・荻原魚雷。QJWebで、著者初の時評連載をスタート。高円寺の部屋から、酒場から、街から、世界を読む「半隠居遅報」。「死ぬまで働け」というパワハラ上司、ひどい場所から「逃げてはいけない」とおもいこませる習俗の力とどう向き合うのか。仕事にも役立つ、生きる上で大切なこと。
無意味なガマンを強いる人、勢力と戦うことに決めた
116歳の老人が「100歳以下で死ぬ人間は自己管理がなっていない」といったら、どうおもうだろうか。あるいは短距離走の世界記録保持者が「100メートルを10秒以下で走れない人間は努力不足だね」といったら……。
世の中には「自分にできることは他人もできる」と考える人がけっこういる。貧困にめげず、苦境から抜け出すためにひたすら努力し、苦学して成功した。もちろんそれは素晴らしいことだ。偉い。逆境に耐え、どん底の暮らしから抜け出した人の話を聞くと勇気が出る。
しかしそういう人が「貧乏なのは怠けているからだ。風邪をひくのは自己管理がなっていないからだ」といったとしたら、それは正しくない。
かつて某居酒屋チェーン店の社長が「365日24時間、死ぬまで働け」という理念を唱えていた(現在は撤回している)。
1990年代の半ばごろまでは「死ぬ気で働け」くらいのことをいう経営者は珍しくなかった。
20代半ば、業界紙で仕事をしていたとき、社長から「寝ている時間以外はずっと仕事のことを考えろ」と説教されたことがある。そんなことは無理だとおもい、すぐやめた。だけど、わたしは「ひどい職場をすぐやめない人は危機意識が甘い」というつもりはない。そう考えることは、正しくないとおもっているからだ。
「死ぬまで働け」というパワハラ上司および休むことが許されない雰囲気の環境は、間違いなく悪である。しかし、ひどい場所から「逃げてはいけない」とおもいこませる習俗の力も無関係ではない。
よりよい環境を求めて、家を出たり、学校をやめたり、職を転々としたりするより「一所懸命」にひとつの場所を守り抜くことをよしとする文化がある。
1980年代初め、わたしが中学生のころは校内暴力の全盛期で学校の中が荒れまくり、授業はほとんど行われていなかった。それでも休んではいけないと言われた。部活もそうだ。顧問や先輩にどんなに殴られても、入部したら卒業までつづけることが正しいとされた。途中でやめると内申点に響くという噂もあった。
部活中は水を飲んではいけなかった。のどの渇きに耐えることで精神力が鍛えられる、不屈の闘志が身につく――なんて非科学なのだろう。過労死を招く思想とほとんど同じだ。
中学3年間、わたしは耐えに耐えた。その忍耐はすべて無駄だったとはおもわないが、二度とあのころには戻りたくない。そして無意味なガマンを強いる人、勢力と戦うことに決めた。
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