心のバックアップで“不老不死”も現実に?「マインド・エミュレーション」の可能性(粉川哲夫)

2020.9.9

そもそも「生身の人間」は存在しない

TK エミュレーションを「マインド」に限定したのは賢明だと思いますが、「ボディ」のほうはどうなるんでしょう? テクノロジーの動向は、電子テクノロジー以後、“身省化(body-saving)”の方向で進んできたことは事実で、その上、今、Covid-19危機で身体は「汚らわしいもの」「なければないに越したことがないもの」と考える傾向が強まってます。

しかし、個々人の単位では身体は厳然と存在するわけで、身体の「無駄」や「ノイズ」や「トロさ」――総じて「リダンダンシー(redundancy)」と言ってもいいと思いますが――そういうものとの矛盾や相克のなかで「マインド」は創発性を生み出すのではないですか?

MX 確かにそのとおりで、「マインド」だけが発動している瞬間にも「器官なき身体」が必要なんだ。この言葉は、パフォーマーというにはぶっ飛び過ぎているアントナン・アルトーが、自分のある種の「痴呆・放心状態」との関連を含めて言った言葉だが、それをドゥルーズとガタリは彼らの思想のキーワードにしている。

それから半世紀近く経っている今、「マインド」と「ボディ」というような区別はやめていいんじゃないかと思う。つまり、最初から両者はひとつだという発想から出発してもいいのではないか。そもそも「知」にしても、「脳」だけにあるわけではないし。

TK その場合、デジタル・ヒューマンというのは、リアル・ヒューマンとはどういう関係になるんでしょうか? 全然別のエイリアンなのか、それともリアル・ヒューマンに限りなく近づけるのか。

MX すでに、あなたの言う「リアル・ヒューマン」と「デジタル・ヒューマン」との境界線はなくなっていると思う。映画では今後生身の俳優の仕事がなくなるかもしれない。そもそも「生身の人間」などというものは存在しない。我々は、すでにデジタルシステムとの雑種かサイボーグになっている。

「ボディ」にしたところで、衣服や空調や都市というような物理的な外的条件だけでなく、メディア装置を通じてのさまざまな情報、さらにはその内容よりもそれらを知らず識らずのうちに知覚するリズムや様式、空気のように存在する無数の電磁波などと結びついて機能しているから、「人型」ではない。「ボディ」は皮膚という見かけのボーダーを越えて「外界」と一体化している。

「心」よりも「身体」との関係性が重要に

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