ゲームは悪か
ぼくは、ゲーム作家だ。ゲームを作るのが本職である。
そういった立場であるにもかかわらず、「さらなる研究のための基準」として、「ゲーム依存症(ゲーム障害)」を定義することには反対しない。
いったん基準を設けて、検討・研究をすることの必要性はわかる。
「ゲーム」は悪でもない。善でもない。
包丁が使い方によって善にも悪にもなるように、ゲームも使い方次第だ。
「どのように使うことで悪影響を及ぼす危険性が高くなるのか」ということは、製作者側も真剣に考え検討していくべきだし、それ以外の専門家の協力も得たい。
ぼくが心を痛めているのは、ゲームを遊ぶことを悪だと大ざっぱに決めつけることだ。
その大ざっぱさで、「ゲームに夢中になってしまう子ども」を傷つけてしまうことだ。
ゲーム好きの子どもとどう接するか
ゲームを悪にして、ゲーム好きの子どもと対立してしまうのは、子育ての方法として長い目で見ればマイナスだ。
信頼している親が、自分の好きなゲームに理解を示さない。
それどころか、数の暴力で可決した条例を持ち出して、禁じようとする。
その構図に気づいたときに、親を信頼しつづけられるだろうか。
従順な子どもは、条例まで持ち出してゲームを禁じればやめるだろう。悪いことだと思うかもしれない。悪いことを好きな自分は、よくない自分だと思うだろう。
ゲームが何を教えてくれるか
提案したい。
お母さんお父さんも、ゲームを遊んでみてほしい。
できれば、子どもに「ちょっとゲームやってみたいんだ」と持ちかけて、なんのゲームをやるといいか聞いてみてほしい。
ゲームは、豊かな文化だ。
ゲームが何を教えてくれるか、どんな魅力があるのか、遊んでみることで少しずつわかってくると思う。
子どもから教わってみてほしい。
大人の視点で、子どもとゲームについて語り合うことで、ゲームが善でも悪でもなく、遊ぶ側がゲームとどう接するのかが重要なのだということを共有してほしい。
ゲームはどのように使われるか
ゲームを社会や学習に活かす「ゲーミフィケーション」の研究も進んでいる。
事例を挙げればきりがない。
子どもの肥満が問題になったアメリカでダンスゲーム『ダンスダンスレボリューション』が公立学校で導入された例や、歴史を扱ったオンラインゲームを教材として行う授業など、実際に学校のカリキュラムに取り入れられることも多い。
ゲームを遊ぶことで、戦略性や、論理的な思考が鍛えられる。
アルゴリズムを理解する能力が身につく。
他人と協力プレイすることで、協調性も養える。
押井守監督にインタビューしたことがある。
愛犬を亡くし、失意のどん底にいた押井監督を救ったのが『ドラゴンクエスト』だったという話を聞いた。
数週間、延々と遊びつづけることによって、回復していったそうだ。
ぼく自身も、学生のころにゲームがなければどうなっていただろうと想像するとゾッとする。
人にとって、一時的な避難場所として、ゲームが機能することも知ってほしい。