イヤミス好きにはたまらない『汚れた手をそこで拭かない』
杉江 そして最後は『汚れた手をそこで拭かない』です。芦沢さんは長篇の印象が強い読者も多いかもしれませんが、精力的に短篇も発表していて、私のようにアンソロジー担当者には心強い存在でもあります。独立短篇をもっとみんな書いてほしいんだよなあ。
マライ 人生は基本的に悪い予感のベクトルに収斂する、という原理の正しさを証明するかのような悪夢短篇集です。これはすごい。素晴らしいですよ。特にイヤミス(厭なミステリー)好きの方にはたまらないでしょう。しかしこのあと味の悪さは、ミステリー読者には大正解でも一般層の読者相手にはどれくらい勝負できるのか、という点が心配です。世の中はもう少し癒やし方向に行っているような気もして。個人的に気に入ったポイントは、心理描写の密度とスピード感です。何かをやらかしたあとで登場人物たちの脳は普段の5倍くらいの速度でフル回転し始めますよね。もともと思慮深くしていればそんな必要はないのに(笑)。そこで生じる圧倒的な焦燥感と、悪あがきが呼ぶであろう最悪展開への期待値が否が応にも高まる。そのテクニックが絶品です。
『汚れた手をそこで拭かない』あらすじ
小学校教諭の千葉秀則は自分の失敗に気づいて狼狽する。プールの水を出しっ放しにしてしまっていたのだ。すぐに報告しなければいけないが、それでは評定に傷がつく。隠蔽策を探る秀則が辿り着いた結論とは。自らの過ちに向き合えない人の愚かさを描いた連作集。
杉江 収録作の共通項は「幼児性」ですね。「許してもらえると思った」「みんなやっているから」というみっともない言い訳は世の中に蔓延しています。政治のトップからもう、身も蓋もない取り繕いをして恥じることがないわけですが、そうしたどうしようもない感じを各話の主人公は体現しています。その意味では、すごく現代性がありますよね。ただ、ミステリーというジャンルにはこういう、人間の負の側面をクローズアップしたプロットが古典的に存在するので、まったく新しいものだとは思いませんでした。既存のものを使って、ちりちりとしたスリルのある物語を書いているとは思います。ちょっとだけ気になるのは、主人公たちが取る愚行の中に、予定された結末へと向かわせるための無理と受け止められかねない部分があることです。ミステリーのプロットなので仕方ない面はあるのですが、「スリルを盛り上げるためにしてはならないことを登場人物がする」話って、直木賞的には減点対象なんじゃないのかなあ。
マライ ああ、一般読者は自分の類似体験を重ね合わせて違和感をチャラにしそうですが、プロの読み手である選考委員は騙せない、ということですね。その可能性はあるかもしれない。それは難しい問題で、現実の人間が取る行動はフィクションの登場人物以下に間抜けだったりしますよね。だから、そういう人間もいるじゃん、という反論は成立しそうに思います。ただ、登場人物にベストを尽くさせる、というのは作劇法のマナーかもしれませんね。
杉江 ミステリーでは「経済効果」という言い方をよくするんですね。殺人みたいな極端な手段に訴える前になんとかするとか、理性的な計算を犯人がしないのは作者のご都合主義だ、ということです。その点を突かれるかもしれない。ただ、努力された短篇集だと思うんです。さっきも言ったようにたくさん書いてくださっている作家だし、その点は評価したい。最近は将棋小説に挑戦していて、非常に開拓精神旺盛です。加藤さんのときと同じ言い方になってしまいますが、どんどん書いてもらいたいですよね。
マライ 同感です。
直木賞候補作総括
杉江 というわけでこちらも6作すべての候補について言及しました。最後にマライさんに全体について言及していただきたいと思います。
マライ ここしばらく「社会的教訓の継承」という面で、近現代史を題材にした硬派エンタメの重要性についていろいろ思うところがあったのですが、『インビジブル』はそれらの問題意識を正面からガッチリ受け止めてくれる作品であり、直木賞候補になったことで注目度が高まるとしたらとてもうれしいと思います。
他方、個人的にはたとえばラノベ・アニメ・マンガ・ゲーム等のコンテンツにおける「文芸・文学・哲学性」のさりげない高まりやメディア間の相乗効果も気にしていて、それを踏まえて考えると、たとえば『オルタネート』の主人公たちの「ほどほどっぽさ」「操作性の高さ」は日常系シミュレーションゲームのプレイヤーキャラ的でもあり、本作が「ゲーム感覚的な小説」である可能性を示している気がします。そしてこれが「文芸的な」ゲーム群と交わるとどうなのか? 何か新しいものが生まれるのか? 市場はどう評価するのか? とても興味深いです。エンタメ的文芸の最高ブランドたる直木賞の環境がその状況を認識できずに旧来的な作法に引きずられたまま進んでしまうともったいないので、加藤シゲアキさん的な感性と路線が、今後どのように自らの「文芸」的な価値を構築してみせるのか、という点に注目していきたいと思います。
杉江 ありがとうございます。個人的には、なんで今の月村了衛を候補に挙げないんだよ、とか、田中兆子『あとを継ぐひと』(光文社)を読んだのかよ、とかいろいろ言いたいことがある今回の候補ですが、大人しく結果を待ちたいと思います。
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