岩井秀人「ひきこもり入門」【第2回前編】酔っ払って木刀を振りかざす父。自分は「他人と違う何者かになれる」と思っていた



医師の父は、家では王様でいないと気がすまない人格

他人に「感情」があることがわからないのは小学校に入ってからもつづいていて、手を上げた記憶もこのころが多い。みんながブランコの順番待ちをしているのにひとりだけ列を無視して乗りに行って、止めに来た同級生を殴って黙らせた。サッカーで遊んでいるとき、納得がいかないことがあると怒鳴って言うことを聞かせて、相手が粘っていたら殴る。とにかく何かあるとすぐ他人を殴っちゃう子供だった。

その原因は、父がよく殴ってくる人だったことにある気がしている。父には昔からよく殴られていた。

父と母、5つ上の兄、ふたつ上の姉、僕という家族構成で、僕が9歳のときに妹が生まれたが、よく殴られていたのは兄と姉と僕の3人だ。父に殴られるのはいつも同じシチュエーションだった。真夜中、駐車場の玉砂利が弾ける音がして、父が勤め先の病院から帰ってきたことがわかる。その音を聞くだけで、もう動悸がしてくる。2階の自分の部屋にこもって、漏れ聞こえる音から様子を窺おうとする。父は帰ってきた時点ですでに酔っ払っていることも多かったが、さらに家でビール、ウイスキー、日本酒と立てつづけに飲んでから眠るのが日課だった。そして、僕ら兄弟が呼び出されるのはその途中だ。暇になったのかなんなのか知らないが、名前を呼ぶ声が聞こえて、兄と姉と僕は部屋を出て1階に降りる。

岩井秀人
岩井の実家の前で

3人が一列に座らされ、酔って真っ赤な顔をした父が「お前ら最近どうしてんだ」とニコニコしながら聞いてくる。母はキッチンに用事があるふりをしながら、心配そうに様子を窺っている。兄弟間に漂う「誰が答える……?」の空気。まともに答えたところで、確実にろくなことにはならない。が、誰ともなく、角が立たぬように答えるしかない。

「おい、聞いてんのか? 勉強はどうなんだ」

「……やってるよ」

「本当にやれてんのか? 俺から見てもやれてると言えるのか」

「テストで満点取ったからやれてることになるんじゃないの」

「ほう大したもんだな。井の中の蛙っていうのはこういうことだな」

本人はかわいがっているつもりかもしれないが、馬鹿にしているのが透けて見える。そうして子供たちを詰めながらひとりでどんどん興奮していって、さっきよりも首に浮かぶ血管も太くなっているように見える。

「それはどれだけできてるってことなんだ? お前、それ以上のことは絶対にできないってことか!?」

僕たち兄弟は意味不明だなとか、早く終わってくれとか考えながら聞いていて、運が良ければ父は途中で満足し、そこで解放される。でも、そうなることは少なく、話はいつの間にか兄弟のことから父の昔の苦労話にすり変わっている。

「俺が子供の頃は、ロウソクの灯りで勉強した」とか「隣の部屋で姉が結核で血を吐いているのに俺は勉強していた」などと話しているうちにだいたい父の興奮はマックスまで高まり、「俺がどんだけ勉強したか知ってんのか、お前らー!!」と、真っ赤な顔をさらに赤くしながら殴ってくる。シンプルにゲンコツのときもあれば、ビール瓶を振り回すことも、剣道をやっていたわけでもないのになぜか家にあった木刀で殴ることもあった。

富山の田舎で、医者の家系の9人兄弟の末っ子として生まれた父も、本人が「俺だって馬鹿だチョンだと言われて殴られて育ったんだ」と言っているように、まあ、手を上げる父親のもとに育ったのだろう。兄妹のうち何人かが医者になっていて、本人も医者を目指したが、2浪してなんとか日本大学の医学部に入った。しかし、当時の日大は「殺人大学」と揶揄されることもあるほどで(父談)、「どこにも入れない医学部志望が集まっている」と評判だったらしい。父はそのことをすごくコンプレックスに思いながらも、必死に大学に通い、医学の道に進んだ。

「俺が海外で細菌の研究をしていたときは『スティンカー』ってあだ名で呼ばれてたんだよ、『猛烈にくさいやつ』って意味だ、わかるか!?」小学生の僕たちにわかるわけがない。

「それくらい研究室にこもって必死に勉強してたってことなんだよ!!」毎回同じ内容の苦労話を延々聞かせたあと、ときに父は反応の薄い僕たちを殴った。

こうしてよく考えてみると、僕は「他人に感情がないと思っていた」と書いたが、一番身近なところにわけのわからない感情を振り回す父親がいたのだ。矛盾しているが、父のことは自然物のように捉えていたのではないかと思う。まったくこちらの意思とは関係のないところで、突如キレたり、勝手に機嫌を良くして5千円くらい投げ渡してくる。そういう動物だ。父は家の中と外を、別の世界だと捉えていたのだろう。

今までやってきたひどい行いが、みんなの中に残っているのが怖い


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