男女それぞれの固有の痛みを矮小化しないこと
このドラマは、そういう言語化しにくい、でも確実に触れていた感覚をリアルに表現しているのだ。もちろんそれは、島本理生の原作にも繊細に描かれていたということもあるが、それをそのまま映像にすることは決してたやすいことではない。
こうした繊細な作品作りが実現したのは、女性のプロデューサー、脚本家、そして演出家が、その違和感が単純化されたり矮小化されたりしないよう丁寧に再現したからではないかと思える。
もちろん、本作が男性の監督での映画化も決まっている今、男性にこれができないとは言わないし、繊細に描かれることにも期待しているが、実生活でこうした視線の正体に気づく経験は少ないであろうから、わかったふりはせずに、フラットに意見を集める必要もあるだろう。
世間では、「男だから、女だからではない」という言葉がポジティブに使われている。確かに「男だから、女だから」ということで、能力に差があるとか、可能性に差があるという使い方をしないという意味では、それは正しい。しかし、生きてきた過程で傷ついたことを、「男でも、女でも一緒だ」と同一視することで結果的に、男性にとっても女性にとっても、それぞれに存在する痛みを矮小化してしまうこともある。
このドラマを観た男性の幾人かは、自分の罪をつきつけられるような気がしたり、自分だけはそんなことはないと憤ったりする人もいるかもしれない。ドラマの中の、環菜をモデルに絵をかいたかつての男子大学生もそんな違和感を表明していた。
また、女性だけが覚える違和感の正体が描かれていることはわかっても、この話に首をつっこむことが怖くて目をそらしてしまいたくなるかもしれない。
以前のドラマというのは、男性にこうした違和感を与えたり、恐怖心を与えたりしてはいけないと気を使い、泣く泣くマイルドな表現にしていたものもあったと思う。また、これは男性にはわからない感覚であると、企画が却下されたり、それはどういうことなのだと、半ば暴力的に「説明」を求められたりすることもあっただろう。
このドラマは、こうした無自覚に投げかけられる「わからない」ということに立ち向かう意味もあるのではないかと思えるほど、言葉では伝わりにくい「女性の違和感の正体」について、きっちりと繊細に描き切っていた。そして、主人公の真木よう子、容疑者を演じた上白石萌歌、その母親を演じた黒木瞳といった出演者3人も、その「正体」についてしっかりと理解した上でドラマの中に存在しているように見えた。