「対等であること」とは?私たちの知らない世界と真摯に向き合った記録

2020.2.18
書籍『聖なるズー』

文=小沼 理 編集=森田真規


「ズー」と呼ばれる動物性愛者たちが世界中にいるらしい。『聖なるズー』という本は、性暴力に悩んだ経験のある著者・濱野ちひろがズーたちと真摯に、真正面から向き合ったドキュメントだ。

本書に出てくるのは私たちの知らない世界の人々であるとは思うけれど、「さまざまな関係における加害と被害の構造に向き合った記録」として読むことができるはず。2019年に第17回開高健ノンフィクション賞を受賞した、偏見を持たずに多くの人に読んで欲しい1冊を紹介します。

動物性愛者が問いかける「対等な関係」のあり方

犬や馬などの動物をペットではなく「パートナー」として扱う人々がいる。彼らは動物と生活をともにし、恋人のように愛し、時にはセックスもする。『聖なるズー』は、そんな動物性愛者=ズーたちの姿を追ったノンフィクションだ。

センセーショナルなテーマだが、ズーたちをおもしろ半分で紹介するものでも、彼らの権利を声高に訴えるものでもない。背景には、著者自身の切実さがある。

著者の濱野ちひろさんは性暴力に苦しんだ過去を持ち、京都大学大学院で文化人類学におけるセクシュアリティを研究している人物。研究のなかでズーの存在を知った著者は、ズーにとっての愛とセックスが自身のそれを解き明かす糸口になるのではないかと考え、ドイツにある世界で唯一の動物性愛者の団体「ゼータ」にコンタクトを試みる。

最初、ズーたちは著者が興味本位の人間ではないかと疑い、著者はズーが動物たちに暴力的な性欲を向ける人ではないかと怯えていた。相手が信頼に足る人物なのかを見定める、傷を抱えた者たちの視線が交錯する。重苦しい空気のなかでお互いに歩み寄り、少しずつ緊張を緩めていく描写が生々しい。

強烈な印象を残すのが、調査を通して親しくなったズーたちのホームパーティでの出来事だ。パーティが終わった翌朝、著者はズー・ゲイ(男性で、オスのパートナーを持つズー)のエドヴァルドが、パートナーのオス犬バディのマスターべーションを手伝う場面に立ち会う。

エドヴァルドは「バディがイライラを募らせるのが見ていてわかる」から性欲をケアするのだと言い、「人間の都合で犬の性をコントロールするなんて」と動物の去勢を批判する。また、人間が望む性的な行為のためにバディをトレーニングすることは「それは動物を道具扱いすること」だから絶対にしない、とも話す。バディを性的に成熟した存在として認め、性欲も含めて丸ごと受け入れようとするのだ。

ゼータに所属するズーたちは、セックスを通してパートナーとの対等な愛を実現しようとする。この彼らの実践は、著者に、読者に深い問いを投げかける。言葉で意思疎通ができる人間同士でさえ、時には性をめぐってトラブルが起きる。言葉を話さない動物の心の声にじっと耳を傾けるズーの姿は、性被害の現場で声を押し殺しつづけた著者と響き合う。

だが著者はズーを深く理解しつつも、自分と重ね合わせない。長い調査の果てで、著者はズーたちがパートナーへの愛や、対等なセックスをロマンチックに語れるのは「相手が人間ではないから」だと書く。裏切りのない動物との愛の形は、人間とは違うのだと。

その毅然とした線引きに、思わず息を吞んだ。善悪や常識で裁くのとは別のやり方で、明確に線を引いている。著者にそれができるのは、ズーたちと過ごし、悲しみを聞き合った経験があるからだろう。理解されない孤独や偏見の痛みを分かち合い、時間をかけて築いた親密さによって、著者とズーは研究する者/される者という枠組みを超え、対等な関係を実現している。

本書はズーの実態を追いながら、著者が愛とセックスの当事者として「対等であること」について考えつづけたドキュメントだ。同時に、さまざまな関係における加害と被害の構造に向き合った記録としても読むことができる。動物性愛という思いがけない角度からの光は、「何かと関係すること」の倫理を根本から問い直す。


濱野ちひろ『聖なるズー
2019年11月26日発売 1,600円(税別) 集英社

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