下北沢から「なんでもなさ」が失われませんように(岩渕想太)

2023.2.17
岩渕想太

文・撮影=岩渕想太 編集=鈴木 梢


『ROCK IN JAPAN FESTIVAL』や『VIVA LA ROCK』といった大型音楽フェスに出演、人気バンドが多数集結する『パナフェス』の主催もするロックバンド・Panorama Panama Town(パノラマパナマタウン)のボーカル岩渕想太が、世の中の違和感を覚えた事象に、過去の経験から独自の視点で思考を巡らせるコラム連載「岩観(いわかん)」。今回は、下北沢駅周辺の変化について考える。

「ミカン下北」と下北沢の原風景

下北沢をダラダラ歩いていると、「ミカン」という建物が目に留まる。建っているのは、昔、京王井の頭線が通っていたところ。その線路跡に出現した商業施設が「ミカン下北」だ。下北沢が常に「未完」であることに普遍的な魅力を見出して名づけられたらしい。

妙な名前だと思う。街はいつだって未完のものだから。たとえば、渋谷駅前はいつだって開発中である。むしろ完成しないことをエネルギーとして、その空虚さのまわりで激しく回転している街、そんな印象を受ける。

「ミカン」が出現するその前、井の頭線が地上を通っていたころの下北沢を私はよく知らない。
この街によく来るようになったのは、4年ほど前。上京してすぐに住んでいた町田を出て、最初に選んだ拠点がここ下北沢で、そのままダラダラと住みつづけている。正確には、その近辺に。

下北で古くからやっている飲み屋に入ると、よく言われるのが「昔はもっとめちゃくちゃやったよ」というセリフ。同じようなことを、町田に住んでいるときにもよく聞いた。「昔は、もっとめちゃくちゃな人が多くて、活気がある街で」。そんな話をするとき、じいちゃん(またはばあちゃん)は、遠い目をする。見えない参照点を眺める目。「あのころはよかった」なんてノスタルジーに浸るカッコ悪さも知り尽くしているんだろう。ある種の諦念のようなものが宿ったあの目が好きだ。めちゃくちゃな人はおろか、普通の人さえ姿を消してしまった北九州の地元の街を思い出して寂しくなる。

確かに、7年ほど前、神戸からライブのたびに通っていた下北沢は、北口に酒場が密集しており、今よりもっとごみごみしたイメージだった。名前を「駅前食品市場」といい、戦後の闇市をルーツに持つその飲み屋群は、駅前再開発の計画によって2018年に姿を消した。そのころの下北沢を、悲しいかな私はよく知らない。今、その飲み屋群があった広大な空間は空き地となっており、この先道路を延伸して、バス停などができる予定らしい。

下北沢駅北口をスズナリに向かって歩く途中に、「トラブル・ピーチ」という老舗のバーがある。急な階段で2階へ上がると、爆音でレコードが流れている。大事な話や、会議などには到底向かないだろう。むしろ、はぐらかしたい話や、核心に触れたくない話をするとき、あとはもちろん音楽を大音量で聴きたいときに入る店だ。

店内で好きなだけタバコが吸え、充満した煙と、電灯の暗さも相まって一番奥の席まで見渡せない。歩くたびに軋む床。お通しはポップコーン。レコードが突然「ブツブツ」とノイズを奏でる。そのたびになんだよと言いながら店主が直しに入る。こうしたイメージが下北沢の原風景なんじゃないかと思う。

今でも、スズナリの周辺や、トラブル・ピーチあたりなどはそういった昔ながらの下北のイメージが残っている気がする。歩道にまで椅子を広げて飲める店や、客がいる限りいつまででもオープンしているバーなど。「ミカン」を中心とした、新しくでき上がりつつある下北像から大きくかけ離れた風景だ。

古着人気の中にある「小さな幸せ」

今、下北にはたくさんの若者がいる。ここ何年かで人通りもさらに増えた気がする。自転車で通ろうとすると、紙袋を抱えたカップルに阻まれうまく通れない。古着屋の数がとても増えた。看板を見上げると、「最高の古着屋」とだけ書かれていたり、塗装されてなかったり、無人の餃子販売場のような趣きが漂う店が多く存在する。それだけ需要が大きいということだろう。勝手なことをいうと、需要の大きさと、その店の仮設っぽさは反比例する。本当の意味での「不要不急」ってやつじゃないだろうか。個人の「必要」に迫られて、街は姿を変えていく。

古着人気の一因には、「小さな幸せ」のような価値観が渦巻いてるように思う。いうなれば、夜中のコンビニにアイスを買いに行ったり、昔ながらの居酒屋でホッピーを飲んだりするような。映画『花束みたいな恋をした』は本当に誰にでも起こりそうな恋愛を描き、大ヒットした。菅田将暉演じる麦くんはGoogle Mapで自分が写っているストリートビューを発見して、大喜びする。ただそこにある、日常。小さな幸せ。

誰にでも起こりそうな、というところが重要だから、ブランドショップも高級なレストランも要らない。そんな価値観が、下北沢にバッチリとハマっているのではないだろうか。自分は世界にごまんといる中のひとりで、そんな自分をそれでも愛する、という肯定感。何者にもならなくていい。誰かが着た服を着る。そして誰かに渡す。

Google Mapで調べればいい店など無数に見つかり、あらゆる道が網羅されてる時代に、あえて変な道を通ったり、誰でも行ける居酒屋に行くことで、発見できるおもしろさを追い求めることが好きだ。さんざんビジネス本で擦られ倒した、「モノ消費から、コト消費へ」みたいな話はしたくないが、多くの人が価値を認めたブランド品を選んだり、レストランに行くことよりも、自分で見つけ出すことにドラマがあると思う。

下北沢にはタワーレコードもTSUTAYAもない。これだけバンドマンが多いのに、大きな楽器屋すらない。それはこの街の好きなところだ。個人商店も多く、古着屋に埋め尽くされつつあるが、商店街のようなものも機能している。

記号に回収されて、「なんでもなさ」が失われませんように

なんの責任も持たないビジターが思うのは、下北沢がなんの記号にも回収されなかったらいいなということだ。なんとなくおもしろくなってきた街が、その「なんとなく」を言語化しようとするあまり、設備や受け皿のほうが先行して、おもしろくなくなっていくケースをたくさん見てきた。この街に集まってる人は「夢を追う人の街」を求めているわけじゃなくて、今やただここにある日常を追い求めて来ているんじゃないかと思う。少なくとも私はそうだ。

たまたま入った焼き鳥屋で串を1本サービスされたり、キャッチの勢いに負けて観たお笑いライブが割とおもしろかったり、始発まで1時間というところで店を追い出されコンビニで買った缶チューハイ片手に散歩したり、そうした、なんでもないこと。そうした、なんでもなさが失われませんようにと強く願う。

こうした価値観は、ある種の「だらしなさ」みたいなものと相性がいい。下北沢を舞台とした映画や、ドラマがたくさん撮られるようになったが、たいがい主人公の男がその日暮らしでダラダラ生き、行為にばかり及ぶ。こうしたものを安易に美しいと記号化したくない。「だらしなさ」は、結果であり、それ自体を憧れたり、追い求めるものじゃないと思う。これは無論自戒を込めて。

「なんでもなさ」を再生産しようとするあまり無味無臭にならずに、かといって「だらしなさ」の病にも陥らず、街がただそこにあるだけで、光り輝きますように。

ただそこにある幸せを追い求めたいという欲望は、何によっても掬(すく)われないはずだ。ましてや、ピカピカライトアップされた商業施設や、大げさな仕掛けなどでは。

下北沢の南、茶沢通り沿いのスターバックスの裏手の、どこかうらびれた雰囲気の道が好きで、調べてみるとかつて森厳寺川が流れていた暗渠道だった。ここを夕方過ぎに歩くのが俺の幸せ。人もまばらで、風も気持ちいい。同じ道でも見方を変えればいくつもの発見がある。そうした意味でも、いつだって街は当たり前に未完だ。

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岩渕想太

(いわぶち・そうた)Panorama Panama Town(パノラマパナマタウン)のボーカル、ギター。1995年1月18日、福岡県北九州市の商店街生まれ。実家は餅屋。

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