GEZAN『狂(KLUE)』が問う、新しい時代の新しい「革命」のかたち

2020.2.10

ロックのサウンドを異化した革新的な音と、「生」に語りかけてくる歌

『狂(KLUE)』についてまず注目すべきは、ほとんどの曲のBPMを100に統一している、という点だ(「GEZAN『狂(KLUE)』ロング・インタビュー後編 誰もが自分の人生を取り戻し、幸せになっていい」 石井恵梨子)。クラブにおける忘我のリズム、ダンスによって得られる自由の感覚――GEZANはあくまでもロックバンドとして、そういったものを『狂(KLUE)』において表現する。

しかしこのアルバムは、ロックの歴史において何度も試みられてきた「ロックバンドによるダンスミュージック」という退屈なクリシェを再奏しない。それには、ダブミックスのプロフェッショナルである内田直之(DRY&HEAVY)の貢献によるところも大きい。冒頭の「狂」や7曲目の「訓告」などでは、ディープでサイケデリックなダブ処理が施された音響と、重たくうねるベースラインが聞き手の耳にのしかかる。

GEZAN「訓告」

BPMは一定。すべての曲はシームレスにつながっている。にも関わらず、『狂(KLUE)』は単調でのっぺりとした作品ではない。その構成力は、見事だというほかない。それにもいくつかの理由がある。

まず、ハードコアなダンスパンクの「replicant」や「AGEHA」ではテンポを倍に取り、BPMをきわめて性急な200としていること。そして、ケチャを意識したミニマルに反復するコーラス、ベーシストのカルロス・尾崎が吹くディジュリドゥの響き、単なる4つ打ちではないトライバルなリズム/ビートといった、ロックのサウンドを異化する要素が取り入れられていること。それらによって、GEZANの音楽はダンスミュージックの形式を表面的に取り入れただけのロックから遠く隔たったものになっている。

GEZAN「AGEHA」

もちろん『狂(KLUE)』を語るにあたって、マヒトが歌っている言葉についても書かなければならないだろう。ここでマヒトは、自分たちの音楽があくまでもレベルミュージックであること、「反抗のサウンドトラック」(「赤曜日」)であることにこだわる。

アルバムの口火を切る言葉はこうだ。「今 お前はどこでこの声を聞いてる?/iPhoneのしょぼいスピーカーから/はたまた電車の中 目をつぶり左右のイヤホンから/まあ 楽にして聞いてくれ/これは これからこの時代が始めなければいけない革命に対する注意事項/失われた抵抗と安売りのシールを貼られた反乱」(「狂」)。今、ここまで聞き手とコミュニケーションを取ろうとする歌い手は、世界を見回しても彼くらいしかいないのではないだろうか。

さらにマヒトは歌う。「日常を盲目に肯定する音楽は/保身のために麻酔を打ち続けてる」(「訓告」)。「0」と「1」で再現されるイージーで無機質なイメージを拒絶し、都市やSNS上のコミュニケーションを覆う虚偽と虚飾を引き剥がすためにGEZANが選んだのは、「生きている音・呼吸している音」(「GEZANマヒト声明・前編。獣の姿で個が繋がる『新たなトライブ』」大石始)だ。

GEZAN「東京」

そうでありながらも、「東京」では開口一番に「今から歌うのは そう/政治の歌じゃない」と歌われる。初めてこのフレーズを聞いたとき、断定を避けた弱腰の留保のように私は感じ、違和感さえ覚えた。が、その後には「皮膚の下 35℃体温の/流れる人/左も右もない/1億総迷子の一人称」と続く。つまりマヒトは、「政治」以前にある、一人ひとりの「生」そのものに語りかけているのだろう(しかし、あえて「政治の歌じゃない」と歌ってみせることには、「政治」なるものを聞き手の意識にはっきりと浮かび上がらせる効果もある)。

「赤曜日」作詞/作曲:マヒトゥ・ザ・ピーポー
「狂」作詞/作曲:マヒトゥ・ザ・ピーポー
「東京」作詞/作曲:マヒトゥ・ザ・ピーポー
(『狂(KLUE)』収録)

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