戸田真琴:少女と、かつて少女だったすべての人へ「君たちはおじさんたちに、心底舐められている」

2022.4.19

文=戸田真琴 写真=飯田エリカ 編集=田島太陽


切実で美しい言葉を手向けるAV女優・文筆家の戸田真琴。初監督を務める自伝的な3本の短編作品からなる『永遠が通り過ぎていく』(アップリンク吉祥寺にて4月21日まで)の公開に合わせ、SNS社会で生きる少女たちに向けた、書き下ろしエッセイを掲載します。

SNSをやるくらいなら、日記を書くといい

戸田真琴「少女と、かつて少女であったすべての人へ」(撮影=飯田エリカ)

春から高校生になる女の子から、私の撮った映画の感想をメールでもらった。とても冴えているひとで、むかしの自分を見ているようだ、と言うのもちょっと臆するくらい、感受性にきらめいていた。パンフレットにサインをしているわたしに彼女は、春からSNSを始めようか悩んでいたけど、やらないことにしました。という話をしてくれた。アクリル板越し、春の、ひみつの花びらのように。

私は、SNSをやるくらいなら、高校生である間毎日日記を書くといいよ、そしたら卒業する頃には本になるから。と言って、夜の案外治安の悪い吉祥寺の街へと出ていく彼女を見送った。

世界はめまぐるしい。とても悪い意味で、文字通り、最低なことばかりが毎日起こっていく。パーソナルな範囲でさえ生きることは苦痛の連鎖なのに、国全体でも、さらには世界全体でも想像を超えて酷いことばかり起きるなんて、逃げ場がなさすぎてなんのフィクションだろう、と思う。社会が、個人の力の及ばない範囲で野蛮なほうへさらに退化していき、個人の尊厳が破壊されてゆくこの大きな薄暗い螺旋に飲み込まれつつあるということが、シリアスな重みを持ってつねに脳の片隅でちらつくようになった。

それは自我の芽生え始めた中学生くらいの頃に、好きだったミュージシャンが売れるためにつまらない歌詞をかくようになっていくのを見ながら感じた絶望と、ずっと地続きに繋がっているものであるように思う。社会というのは、この大人たちの言う世界というのは、個人の営み、そこに流れる尊厳、付随する芸術、そういった値段のつかない尊いものよりもほんとうに優先されるべきなのだろうか? 個人の感受性は、漠然と大きな何か、社会だとか経済だとかのさまざまの都合によって壊されてもいいものなのだろうか?

君たちは、おじさんたちに、心底舐められている

ままならない社会の中を生きてゆく際に、個人が暮らしの丁寧さを見つめることで自らを癒してゆくことを推奨するのは、一歩間違えると現実逃避の推奨や政治・社会運動への無関心を助長する可能性があるので無責任にはできないけれど、今私は映画という芸術をスクリーンで流し、それを見てもらうという日々を毎日過ごしているところなので、そこに立ち上がる個人と個人の話を今日はしたいと思う。とくに、少女と、かつて少女だった人、そして心の中に少女が住んでいる人たちへ向けた芸術をつくり、これからもつくっていくのだと予感している者よりあらためて、白馬の王子のいない世界で、女の子の人生の話がしたい。

少女と、かつて少女であった君と、わたしへ。今、君たちは、社会に、権力をもったおじさんたちに、心底舐められている。ばかであることを望まれている。何も感じないでいろと、見えない声に言われている。そのうちのひとつが、スクリーンで流れる映画たちのなかに、きみの感受性を信用して放たれる風通しの良い芸術が、ほとんどないということである。

【これは「こういう物語」だから、きみは「こんなふうに」感じて、「泣いて/笑って/ときめいて/恐怖して」(このうち任意の1つを製作側が選ぶ)、ください。】という無言の注釈がついた作品ばかりだ。感じ方には正解と不正解があり、きっと君はSNSでどういう感想が流れているかをそっと調べてから、最大公約数の感想をなぞりながら、友達の顔色も伺いながら、恐る恐る言うでしょう。おもしろかったね、泣けたよね、どきどきしたね、俳優さんかわいかった/かっこよかったね、と。

君の悲しみはもっと鮮明に悲しかった

戸田真琴「少女と、かつて少女であったすべての人へ」(撮影=飯田エリカ)

本来、作品の感想を書くことは、一番小さな芸術であり、かみさまへの返礼行為だ。

そしてそれ以前に、君が作品を見て何かを感じることができる、ということ自体が、人間に与えられた最初の祝福である。私はこんなつまらない世界で、私の偏屈で悲観的な脳みそをうっかりぶるぶる振るわせてくれた、作品たちに救われてきた。私がこれまで仕事で書いてきた映画へのレビューたちもみんな、それぞれまた作品だったのだとわかっている。あれらは、芸術の最小単位だった。

皆、何かに出会って感じてしまった、あの言葉になりようがない何かを、なんとかしてこの世界に書き留めようと、描き止めようと、歌い留めようと、掘り留めようと、縫い止めようと、語り留めようと、舞い留めようと、してきた。叶わなくてもそれを試みるということが、芸術という呼吸の、かけがえのない最初の小さなブレスだった。

みんなばかにされている。きみは本当はもっと、感じることができる。君の悲しみはもっと鮮明に悲しかった。きみの喜びはもっと狂ったようにまばゆかった。君の脳には、感性には、目や耳や鼓動には、もっとずっと価値がある。もっと君はいい。君はもっと、君の君として生きて良い。君の魂が腐らずに、美しく爆発四散して、この世界を照らすのが見たい。誰にも内緒で誰にでもできる最初の革命をはじめよう。もっと、[感じる]ということ。自分の魂の価値を、信じるということ。君はほんとうに、みんなが言うよりもっとずっといいんだ。それがそうとわかるように作品を作る。わたしにとって最初の映画はたまたまそういうものになった。これからはわざとそうすると決めた。私もう、そうすると決めた。

ぜんぶ、男の人たちは知らなかったじゃない

戸田真琴「少女と、かつて少女であったすべての人へ」(撮影=飯田エリカ)

SNSに流れる自撮りたちが愛されたいと叫んでいる。同じCANMAKEのアンティークルビーのアイシャドウをのせていても、同じカラコンを入れていても、その声は君にしか出せないたったひとつの声だということをわかっていて欲しい。本当は君は、他の誰とも違う。お金で買える王子様はハリボテだし、お金をくれるおじさまは君が人形ではなく生々しく艶めく虹色の魚だということに気づかない。気づいていないくせに卑しく食べ尽くそうとする。

絵本から王子様が消えた。君にはガラスの靴どころか、ルブタンどころかmiumiuどころか学校の上履きさえもない。白馬はいないし、ふたり乗りする自転車もない。君は、こんなにごつごつとした岩だらけの道を、裸足で歩いていくしかない。

今これを打っている私でさえ、この命の全てが少女であるとは言いきれない。いろいろなものが混ざってしまって、やっとここに立っている。だけれど、私にも少女としての私が全てだった頃がありました。画家たちははるか昔から少女を描き続け、写真家たちは少女をみずみずしく撮りました。少女漫画では何も持たない少女に恋のきらめきが付与され続け、少女の美しさや儚さを描いた映画も少しずつ生まれてゆきました。たしかにどれも美しかった。でもそのすべては、少女でない人の視点から見た美しさだった。

その身体の内側の煮えたぎる溶岩や、ずたずたの手首の傷口の中の赤血球や白血球、それでも傷を治そうと滲み出る組織液、ひらかれることの許可が降りない欲望の花が胸の中にあること、ぜんぶ、男の人たちは知らなかったじゃない。外側から一方的に観察して、儚くて美しいなんてうっとり言う人には、私の、君の、こんな儚くも可憐でもないどうしようもなさ、わかりっこなかったじゃない。

死んだように生きた方がまだましかもしれないのに

これは誰でもない少女のための話だ。わたしでもきみでもないし、わたしでもきみでもある。

見せて欲しいと言われる内臓と、見たくないと言われる内臓がある。どうして? ひどい内臓差別だ。私はすべての臓器があって生きている、全部でやっと1人分なのに。

否定された生臭さは必死で消臭して、何がそんなにいいのか本当はぜんぜんわかんない、彼に喜ばれる程度の人間らしさを希釈しながら差し出して、それできみの全部が好きとか平気で言われて、一瞬だけ嬉しかったりする、そんなとぼけた恋愛ごっこ。そういうのにずっと、傷ついていたんだ私たちは。ちょうどいい馬鹿でちょうど良い頭のよさで、ちょうどいいナチュラルメイクでちょうどいいスカート丈でちょうどいい顔、そうこのくらいの顔でいいんだよとか悪気なく言われて、自分で選んだわけではないもので価値を測られて、困って、本当は悲しかったのに笑ってしまったね。

校舎裏には誰もいないからキスだって拒めるはずなかった。少女漫画でしていたのとほんとうにこれがおなじやつ?と思いそうになる心を、好きって言われる安心感を大きく鳴らして誤魔化して、ときめいているふりをした。

少女漫画のヒロインはみんな初めて好きになった男の子と結ばれて、最終話で結婚するから、そうじゃない私は主人公じゃなかったんだね。と、涙もこぼさず少し虚無になる。君は、悪い女の子になってしまって、こんなわたしに構ってくれるなら少し殴られるくらいはべつにいいと思ってしまう。セックスに答えれば愛しているという体裁になるから、もっと難しいことをするよりそのほうがいい。おかしいな、と思ったことを、つい話してしまった時、信じられないほど伝わらなくて、その本音を胸の奥の奥のほうにあるひみつの箱の中に厳重に仕舞い込んだ。

私は、その箱を開けてしまうために映画を撮りました。その箱を開けたらすべてが変わってしまうこと、知っているのに撮りました。私はいじわるだからです。生きていくことは苦しいのに、知らない方がいいことばかりなのに、死んだように生きた方がまだましかもしれないのに、君の心からこぼれ落ちるだれもしらない朝露に、反射してしまう朝の光を、ただわたしが見たいがために、いじわるをしました。そのために撮ったのだと、今ではわかります。

私が予告する。きみの傷は、いつか光になってしまう

戸田真琴「少女と、かつて少女であったすべての人へ」(撮影=飯田エリカ)

ごめんね。生きることは苦しいです。王子様はいません。君のすべてを愛してくれる人は未来永劫現れないかもしれないし、これまで理不尽につけられてきた、つけられたことさえ覚えていないほど昔からの傷も全部、なかったことにはならないのに、そのぼろぼろの身体からあたらしい身体へ、乗り換えることもできない。絆創膏みたいな音楽も、塗り薬みたいな友達の言葉も、本当に全てを治すことはできない。

だけど、君だけにとって、その傷には意味がある。そこがちょうど芸術と共鳴するとき、スクリーンの中と同じように、ちょうど同じように、傷口が光り始めるときがくる。私の撮った映画とじゃなくてもいい、どこかの誰かの撮った光が、君の傷に見えるときが来ます。生きて、いろんな作品を、見続けるとそれがやってくる。

きみの傷は光だった。ふざけていると思うでしょう。だけれど、私が予告する。きみの傷は、いつか光になってしまう。だから君のそのやわらかい両脚が、この最低な世界のごつごつした足場を踏んでいかなければいけないことを、本当に私も一緒に痛いと感じるけれど、それでもその先にある黄金を探そう。私も探すので、いつか見せ合おうね。


映画『永遠が通り過ぎていく』(監督:戸田真琴)

出演:中尾有伽、竹内ももこ、西野凪沙、白戸達也、國武綾、五味未知子、イトウハルヒ
監督・脚本・編集:戸田真琴
劇中歌:大森靖子
音楽:AMIKO/GOMESS
公開:アップリンク吉祥寺にて公開中(4月21日まで)

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戸田真琴

(とだ・まこと)2016年よりアダルト女優として活動開始、2023年1月に引退。女優業と平行して趣味の映画鑑賞をベースにコラム等を執筆しており、エッセイ集『あなたの孤独は美しい』(竹書房)、『人を心から愛したことがないのだと気づいてしまっても』(KADOKAWA)を出版。2022年公開の映画『永遠が..