水溜りボンド・カンタ、絆を語る。「日常が水溜りボンド」出張版

2021.8.17

『クイック・ジャパン』にて連載中の「日常が水溜りボンド」。今回は水溜りボンド・トミーの代打としてカンタが初コラムに挑戦し、特別出張版としてQJWebに登場。普段のおしゃべりカンタより、ちょっと親密なお話となっております。

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今はエヴァに初めて乗るシンジくんの精神状態

初めまして。水溜りボンドのカンタです。クイック・ジャパンでこの連載を書いていた水溜りボンドのトミーは今、活動をお休みしております。今回は代わりに相方である僕が書かせていただきます。稚拙な文章になってしまいますがよろしくお願いいたします。

さて何を書こうか。とりあえず「コラム 書き方」とGoogleで検索する現代っ子らしい動きをしてみた。コラムとは英語では「円柱形」という意味らしい。まさしく学校で情報の先生が言っていた「困ったときにすぐネットに頼るのはやめましょう」という言葉どおりになっている。何もわからなかった。

素直な今の気持ちは、こうしてクイック・ジャパンで文章を書けることに感動している。僕の中で大好きな雑誌のひとつだ。中学生のころにダウンタウンさんが好きだった僕は塾帰りのヴィレヴァンでダウンタウンさんが表紙のクイック・ジャパンに出会った。それ以来、僕は定期的にクイック・ジャパンを読んで、流行を知り、我が物顔で友人に「次に来るエンタメだ!」みたいな感じで言いふらしていた(ウザ過ぎて絶対に友達いないタイプ)。

そしてYouTubeを始めて、確か登録者が200万人を超えたあたりで、勢い余ってクイック・ジャパンさんにラブコールのメールをしてしまった。(1ページいや、その半分でもいいから出たい、きっとYouTube流行るからクイック・ジャパンさん取り上げてください!みたいな文章)。

そしたら、あれよあれよという間に話が進んでいき、事務所のマネージャーさんから衝撃的なひと言を聞いた。「クイック・ジャパンの表紙」という話が来ていますと。そのときは驚き過ぎて、ドッキリだと思った。こんなの確実にドッキリに決まっている。そして本当に、本当に表紙になったときには大学の友人にたくさん配った。しかもその中で大好きなUVERworldのTAKUYA∞さんと対談させていただいたのだ。

しかしこの一見サクセスストーリーには落とし穴があって、クイック・ジャパンの表紙を飾れること、そして憧れの方との対談、というふたつの最大のプレッシャーにより、一生大切にしたい写真がまるで別人の顔のようになってしまったのだ。自称霊視できるという視聴者さんからは「守護霊が降りてきていますよ」と言葉をいただいたが、僕にはもう暖かいフォローにしか聞こえなかった。ひとまずそんな思い入れのあるQJさんで今回は近況報告とそれを経て考えたことのひとつを書かせていただこうと思う。

憧れの方TAKUYA∞さんにお会いしたときの先祖が乗り移った僕

今はコンビで活動していたお仕事の中でも継続させていただけるものは、基本的に僕がソロで対応するかたちになっている。僕の心の中の叫びとしては「ひとりで『オールナイトニッポン』なんてしたことない」、「何をするのもいつも以上の緊張を感じる」、「視聴者さんが待っている」、「待っていないかもしれない」、「でしゃばっているように見えるかも」、「逃げちゃだめだ!」、この連載も含めてすべての仕事が僕にとってエヴァに初めて乗るシンジくんの精神状態である。

しかしこんな稀有な経験をさせていただけることなんてない。僕ひとりでもできると思って任せてくれる関係者の方がいることに感謝し、すべての仕事を楽しんでやってみようと今は思っている。

そんなこんなで偉大なる『オールナイトニッポン0(ZERO)』を急遽、僕ひとりで務めることになった。当日のラジオブースの雰囲気は、ワールドカップの大切な試合で、引き分けの勝ち点1でいいから取って帰ってこい。みたいな感じだった。本当にたくさんの事務所の方々や、関係者の方に支えられてなんとか走り切った2時間が終わり、スマホを見ると仲よくしている友人や家族からLINEが入っていた。

基本的に僕の友人は登録者100万人を突破した日には誰ひとりとして連絡をくれないが、こういうときに連絡をくれる。影から心配してくれる人が本当に多い。たくさんの人に支えられていることを実感する。

応援してくれる人たちを大切にして楽しませていきたい

その話の流れから僕を支えてくれる「家族」について書いてみる。YouTubeをしていると本当に親にはたくさん心配をかけただろうなとこの年になって実感する。うちの母親は収入の増え方を見てねずみ講に引っかかっているのかと心配してきたくらいだ。実は両親と僕との関係はいびつだ。

まずマレーシアで産まれた僕は10個離れたスパルタな姉(小さい僕に股抜きサーブばかり狙って泣かせるタイプ)と親父のような7つ上の兄(兄の影響でバスケを始めたくらい憧れている)がいる。

そしてマレーシアで1歳まで生活し、そこから神奈川県で8年ほど生活、その後、小学3年生〜6年生まではアメリカのシカゴに父親の転勤でついていくことになった。アメリカで遊んでくれる友達は父親しかおらず、休日はいつも公園でいろいろなスポーツをしていたので父親とは友達みたいな感覚だった。

そして僕は中学生になるときに母親と兄と日本に帰ってきた。そこで姉はアメリカの大学に進み、そのまま今も結婚してアメリカ生活。父親はアメリカのシカゴで僕が大学2年になるころぐらいまで働いていた。なので基本的に多感な中学高校大学あたりは、オカンとふたり暮らしだった。

そしてちょうどYouTubeを始めたときに帰国した父親には8年くらいほぼ会っていなかったのでどう接したらいいのかわからなくなっていた。そしてある日悲劇は起きた。

『無題』(作・カンタ)

僕は父親にはYouTubeをやっていると言っていなかったのだが、深夜寝ぼけ眼でトイレに行ったときに父親の部屋から「はいどうも〜」という水溜りボンドの動画の音が聞こえてきたのだ。しかし、次の日も次の日も父親からそんな話が出ることはなかった。それから1年ほど経ったころに大学の卒業後の進路を父親に話さなければいけないときがきた。そのとき、開口一番に「趣味じゃないのか」と言われた。かなりショックな言葉だったが、しっかりと説明してさらに1年間がんばってそこで判断したいという話をして落ち着いた。

そこからはYouTubeの話題は家庭ではほぼしない冷戦状態が始まった気がする。

数年後。幕張メッセで水溜りボンドのイベントを開催することになったときに、勇気を出して父親をLINEで招待してみた。返答は行けたら行きます。当日、舞台で今日は父親が観に来てるかも?という話をしたときに、うしろの席で父親が手を上げて、会場のスポットが父親に当たり、手を振っているのをステージから見たときにずっと応援してくれて、心配してくれていたんだろうなと感じた。

そして深夜5時までつづいたひとりでの『オールナイトニッポン0(ZERO)』が終わったときも、親父から「父親目線にはなるけど200点だった」とLINEが来ていた。まわりの人を大切にして、たくさんの人に楽しんでもらえるものを創っていきたいなと思った。

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