フェイクや悪意あるコトバが氾濫する現代の寓話
「コトバ」に関する問題は、いつの時代も絶えない。時にそれは人々を安らぎへと導き、また時には恐怖を与える。そんなコトバは現代において、軽くなってしまった。ぴゅうと吹く風によって、1枚の木の葉がどこかへ舞っていくように、気楽に呟いた言の葉は、どこか知らぬところへと舞い、どこまでも拡がっていくのだ。
本作には「口寄せ」をするイタコが登場する。自身に霊を憑依させ、そのコトバを伝えることができる者たちだ。このイタコのひとりを演じるのは、「憑依の女優」ともいわれる白石加代子。彼女が演じる“皆来アタイ”という人物が、恐山を訪れた主人公・“mono(高橋一生)”や、“楽(たの/橋爪功)”たちと出会い、物語は始まる。
アタイは、イタコ見習いだ。つまり、うまく口寄せができるか怪しい。希望する霊を正確に口寄せできるか不安であるし、そもそも彼女自身に口寄せができるのかも不安。自分ではなく、客に霊が憑りつくことだってあるのだ。
これはとても示唆的である。降りてきたコトバ(霊)が、求めていたものではない可能性もあるのだ。換言すれば、そのコトバがまったく予期せぬ事態を引き起こすかもしれないということ。私たちは、気づかぬうちに知らない誰かのコトバに操られ、また別の誰かを操ってしまうことがある。コロナ禍で現実に起きた“買い占め”などはまさにこれだろう。
ツイッターでいうならば、“リツイート”をした本人が、自身の意図や、“ツイート主”の意図の範疇を遥かに超えて、誤読されてしまうというものに近い。この場面では誤った口寄せが起き、シェイクスピアの四大悲劇のうちの『リア王』『オセロー』『マクベス』をアレンジした寸劇が展開する。
愉快、痛快、気分爽快……そんな瞬間もある。幾度も上がる劇場内の笑い声がそれを物語っている。しかし、ここに見られるのはまさしく寓話。カリカチュアライズされた私たちの日常なのである。
コトバで弄ぶ/弄ばれる私たちの姿
野田の作品で飛び交うコトバは自由自在だ。翼がある。それらは、現在と過去とを往還し、神話の世界にまでも一瞬で私たちを連れて行ってしまう。気がつけばコトバの森で彷徨っている、なんてこともままあるだろう。お得意の“言葉遊び”は本作でも横溢し、その時代を切るような批評性とナンセンスギャグのはざまにあるコトバに、私たちは翻弄されるのだ。
野田自身が演じる“フェイクスピア”のあるセリフが印象的だ。それは「言ったが勝ち。書き込んだが勝ち。それが今のコトバの価値」というもの。ラップ調で陽気に口ずさむこのセリフは、私たちに問題提起をしていると思う。確かに口にしなければ、書き込まなければ、そこにコトバが生まれることはない。だがそのコトバ(=情報)の中に、いったいどれくらいの真実が、“マコトのコトバ”があるのだろうか。
主人公のmonoは、恐山に息子に会いにやってきた。楽は、父親に会いにやってきた。それぞれ伝えたいことがあるようだ。monoはこの山で自分のコトバを探し、楽は父のコトバを求めている。このふたりは、実は親子なのだ。そんな彼らのもとへ、神の使いの者である“アブラハム(川平慈英)”に“三日坊主(伊原剛志)”、“オタコ姐さん(村岡希美)”、“星の王子様(前田敦子)”らが登場し、コトバをめぐる物語はますます私たちを深い森へと誘っていく。
サン=テグジュペリによる『星の王子さま』の「いちばん大切なことは目に見えない」という言葉が登場するのが印象深い。同作は、サハラ砂漠に不時着した飛行機の操縦士が主人公の物語だ。コトバにも、“目に見えるもの(文字)”と“目に見えないもの(声)”がある。もしも本当に大切なコトバが、誰の目にも触れず、誰の耳にも届かずに消えてしまったら──。やがていつしか舞台は恐山から、空の上で故障した飛行機の機内へと変わる。機長はmonoだ。
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