寿司、桜、川の流れ、ほら貝の音色……まるで夢の世界のようだ
しかし、帰り道、私の目の前に「中村商店」という持ち帰り専門の寿司店が現れたのだった。
いや、ここも近所なので何度も前を通ったことがあるのだが、見慣れ過ぎてその存在を忘れてしまっていたのである。
「寿司折」という感じではないけど、手ごろな価格の盛り合わせパックが販売されている。
購入したパックを持って、近くを流れる「大川」の川沿いまで足を伸ばす。折しも桜が見ごろを迎えている。
年を重ねるごとに、桜がきれいに咲いて、それを気持ちのいい天気の日に心ゆくまで眺めて歩けるなんてタイミングは実はそうそうないということを知る。仕事が忙しかったり、やっと暇になったと思ったら雨と風が花びらを一気に散らしてしまったりする。こんな完璧な日はそんなにないのだ。だからこうして桜を眺めながら歩けることの喜びを残さず味わえるように、体全体で幸せを抱きしめるようにして進む。
空いているベンチを見つけ、ようやくお寿司タイムだ。
というかこのパックが390円って安すぎないか。なんとありがたいことか。
マグロを食べ、エビを食べ、タコを食べ、チューハイをぐびり。ああ、うまい。外で食べるお寿司の美味しさを私は今日ようやく知った気がする。
ふいに「ふぉーっ」という音が聞こえてきて、なんだろうと思ってそっちをみると「ほら貝」を吹いている方がいた。
寿司、桜、川の流れに加えてほら貝の音色だ。なんだかまるで夢の世界のようではないか。思わず近寄って声をかけ、「写真を撮らせていただいていいでしょうか」と許可をいただく。
そしてお話を聞いたところによると、この方は山伏を目指してほら貝を練習しているそうで、ほら貝を手にして7年になるという。ほら貝というと「いざ出陣じゃ!」と、戦の始まりを告げる音のように思うけど、死者の魂を鎮める意味も込められているのだという。
「この辺りは戦災で多くの人が亡くなられた場所でもありますので、それでこうして吹いているんです」とその方が「伏せ貝」という、貝の口を下に向けて静かに長く伸ばすような吹き方を聞かせてくれた。
お礼を言ってベンチに戻り、引き続き残りのお寿司とチューハイを静かに口に運びながら桜を眺めた。寿司もうまい。チューハイもうまい。それほど寒くもなく、いつまでもこうしていられそうな気温だ。ありがたいことに私は今のところ健康で、桜が一斉に咲くのを今年もこうして眺めることができた。いい一日だ。
と、今この文章を書きながら調べてみたところ、私が寿司パックを買った「中村商店」は、「魚輝水産」という大阪府内と関西圏に何店舗もの寿司店を展開するチェーン店のテイクアウト専門業態で、つまりこれでは「はま寿司」で持ち帰り寿司を購入したのとほぼ同じ!
しかし、もう、今回はこれでいいことにしよう。元気でいれば、もう数回ぐらいはこんな日がめぐってくるだろう。そしていつか憧れの“寿司折”を買えるときがきっと来るだろう。
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ISBN 978-4-909483-72-0 C0095
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『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』の大ヒットで注目を集めるライターのスズキナオ。東京で生まれ育ち、数年前に大阪に転居。それまで馴染みのなかった関西の地と、酒場や酒を通じて出会ってゆく様子を滋味とペーソスあふれる文章で綴ります。
登場する酒場:中津「いこい」「はなび」、天満「但馬屋」、西九条「玉や」「金生」、「風の広場」「大阪城公園」、淀屋橋「江戸幸」ほか多数関連リンク
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